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第2回 70年代、アメリカの情報はほとんどなかった・・・。

石原:ところで最初の「ビームス」はどこにあったのですか?

重松:渋谷明治通りの今ビームス原宿店のあるところです。今はビルになってますけど、当時は小さな店が10軒くらい入っていたんです。奥の方のたった6坪程の店です。

石原:こないだちょっと一人で上海行ってきたんですが、ちょうど上海の今っておそらく日本の1970年代くらいかなあ?という印象でしたが、76年頃の渋谷はもう、ある程度都市の形はできていたのでしょうか?

重松:ええ、ほぼできていましたよ。東京オリンピックが65年でしたから、それから10年経ってましたしね。当時と言えばアメリカでは69年のウッドストック。ヒッピーの流れが続いていたり、「ホール・アース・カタログ」といったモノなどが主流でしたね。

石原:「ホール・アース・カタログ」というのは?

重松:エコロジーについてのエトセトラを書いているもので、こういうものを食うとか、こういう生き方をしろとか、こういうものを作るとか。
若者の文化にエコロジーについて初めて一石を投じたものでした。
それがたしか・・73年くらいで・・その後の「メイドインUSAカタログ」が出来たのが75年ぐらいでしたか。
その「ホール・アース・カタログ」っていうのが影響力があるのをみていて、読売新聞社の今の名誉会長ナベツネさんが石川次郎さんと一緒に作ったのが「ポパイ」です。

石原:「メイドインUSAカタログ」というのは先ほどおっしゃっていたエコロジーあるいはナチュラリズムと関係があったんですか?

重松:そうなんです。そのころのアメリカの道具だったりとか、ワークウェアとか、ナチュラリストの生活感みたいなものの媒体マガジンとして刺激がありましたね。

石原:なるほど。ナチュラリズムっていうのはファッションの因子として組まれているものですか?

重松:そうですね、本質的なものまでは追求しづらいですが、ナチュラリズムはいつの時代にも意識させられるもので物質至上主義にみえた20世紀的近代主義にも、ちゃんと並走しているものだということでしょう。

石原:重松社長はその「メイドインUSAカタログ」には、それなりに影響を受けたものでしたか?

重松:いえ、それは「アメリカ」を知るひとつのソースではありましたが、自分の育った環境がひとつ。
あとは姉から受けた影響がひとつ。
ほとんどアメリカからの情報ルートがない時代でしたから、メディアとしては「メンズクラブ」を読みました。その中でのアメリカのキャンパスライフなど、海外の情報が載ってましたので。

石原:メンズクラブというのは当時あのVANとかの・・。

重松:そうです。本文はかなり嘘っぽく、こんなの違うよとか思いましたが、海外の生きている情報が必ず載っていたんです。そういう海外情報だけを見ていましたね。
その欄だけは、カメラマンが撮ったリアルな写真がありましたから。 

石原:そんなふうにして、重松社長なんかがまさに「渋カジ」を作られたんですよね。

重松:それはもう少し後のことになりますが。

>>次回は重松社長が洋服に携わるきっかけになった「ダック」に
  就職するまでのお話です。お楽しみに。(次回11月15日予定)
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