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第3回 婦人服メーカーの「キャラバン」とかに入ってみたいと思って…。

石原:最初の「ビームス」はどのようにしてできたのですか?

重松:最初は結局、若者を対象とした輸入衣料という感じでした。

石原:そういう輸入衣料は当時、上野(東京)などになかったですか?

重松:上野はアメ横に米軍の払い下げとか、横流しモノを扱ってるトコがあったんですが、それはもうブラックマーケットでしたね。
それと渋谷に恋文横丁というのがありまして、いまの109の裏手ですが。

石原:恋文横丁?

重松:ええ、古本屋を営む元陸軍中佐が、その英語の腕をかわれて、進駐軍の兵士と恋仲になった夜の女のラブレターの代筆をはじめました。これを作家の丹波文雄が「恋文横丁」という題名で小説に書き新聞に連載したんです。そのあたりからこう呼ばれていますね。渋谷にも進駐軍から入手したヤミ物資を売るヤミ市がありましたね。

石原:軍服を売っていたんですか?

重松:いえ、カジュアルなものが多かったですね。
で、そういうとこに高倉健さんとかがいましたね。健さんは当時からムチャクチャお洒落でしたね。自分でちゃんと洋服を選んで買う人、今の芸能界では珍しいですけど。

石原:ところで、重松社長がいわゆるアメリカのカジュアルを最初に「直」で入れたんですか?

重松:いえ、ウチが最初ではなくて小さな輸入代理店として「シップス」さんが始めていました。
昔のミウラ&サンズ有楽町店です。で、そういうところは昔、国産の衣料品を輸出もしていたんです。アメリカから輸入したり、輸出したりですから、そこにいろんな人が集まって来ていたんです。

石原:もういちど戻ってしまいますが、最初はどうしてメンズでなく婦人服の方にお勤めになられたのですか?

重松:それは当時の男性の服でいいと思ったところがなかったからです。要は冷めてて、ウィメンズの方にしたわけです。
高校生のときに近くにすごく高級な洋品店があってですね、そこでニットでその頃の日本では見ないような編み方とか、ジャケットだとか、そういうのを見て刺激されて、こういうのを作ってる婦人服メーカーの「キャラバン」とかに入ってみたいと思って受けたんですけど落っこちゃいました。
そのあとダックに就職したわけです。

石原:ここから洋服に携わる事になったんですね。

>>次回はいよいよ「ビームス」創業のお話。
  創業当時の苦労と情熱が垣間見えますよ。お楽しみに。(次回11月22日予定)
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