石原 |
中央大に入られて、まもなく地元選出の松浦周太郎代議士に会われたとか…。
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今津 |
それには訳があります。入学して私はすぐ応援団に入ります。高い詰襟の学生服がカッコよくって、イヤイヤ入る人が多い中で私は自分の意志で入りました。
ところが3、4年生頃になるといわゆる「70年安保」の直前でしたから、中央大だけでなく全国各地の大学でも学生運動が盛り上がって、争動がしょっちゅう起こってきました。ヘルメットをかぶりゲバ棒を持った左翼系学生に中央大学も封鎖されて授業もなく休校状態です。やがて学内には歴史上初めて警察の部隊が導入され、バリケードの中の学生達も排除されることになります。その頃のことを後で聞くと、北海道1区の町村代議士は東大のラグビー部でしたが、左翼系学生達にリンチを受けていたそうです。
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石原 |
ほお。
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今津 |
私は4年生になる頃には全日本応援団連盟の副委員長になっていて応援団の幹部でした。中央大の全学集会で左翼の連中が社会がどうの…、政治がどうの…とアジ演説をする中で、私は「学生の本分は勉学だ、今こそ大学閉鎖を解除して本分に戻るべきだ」とたびたび反対の演説するわけですよ…。
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石原 |
1969年頃のことですが、中央大学では左翼系と右派系との勢力比はどんな状況でしたか。
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今津 |
10対1で我々右派は圧倒的少数派です。しかも中央大学は全国の大学の左翼系学生の拠点になっていましたからなおのことです。
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石原 |
はあ
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今津 |
その人達の中には、良い社会にしたいという純粋な正義感の人も多数いたと思います。
でも、70年頃を境に学生運動はおかしくなってきて、やがて自ら瓦解していきます。特にあの浅間山荘事件ですよね。あれからですよ。聞くも恐ろしい仲間内のリンチや殺人が暴露されると、さすがにみんなちょっと違うんじゃないかと、考えるようになってきましたよね。
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石原 |
私はその10年くらい前に北大で、教養部の学生自治会委員長を2期やりましたよ。
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今津 |
私はその反対派で、我々応援団は日大や拓大などと連絡を取り合って左翼系に対抗していました。
そんなある日私は中央大の学生会館で全学連の幹部と小競り合いになり、リンチにあったのです。半日くらい意識を無くし、気が付いたら日大の駿河台病院にいました。東京で料理修行中の兄貴や大学生の弟などが何人か集まっていたので、私が「なぜみんないるのか」と聞いたら「医師にはもうダメだといわれていたのだ」「それにしてもよく生き還った」といわれました。その時リンチした連中は数百人で僕らは親分格の僕とあと2人です。
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石原 |
どうしてリンチに。
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今津 |
中央大の全学集会でのことですが、私が学園正常化を訴えるためにマイクでしゃべろうとしたとき彼らに小突かれたものですから、その仕返しにとノコノコ出向いて行ったというわけです。そして懲らしめてやろうと僕は幹部を空き室に呼び、ポカポカとブン殴ったのです。そこでサッと逃げればいいのに、イキがっていたものだから逃げ遅れて駆けつけて来た連中に捕まっちゃたんです。愛校心や正義感からのことで、多勢に無勢は承知の上での彼らに対する抵抗でしたが、私が連れて行った後輩2人もリンチに遇ってしまって、彼らには悪いことをしました。
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石原 |
はあはあ
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