石原 |
IFDAのメインイベントは「国際家具デザインコンペ」ですね。
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長原 |
デザインコンペはまず「コンピューターグラフィック=CG」で応募してもらい入賞の候補作品を選びます。その2次審査段階では「実物による応募」になります。最初の頃はみんな「実物」を自分の国で作って送ってきました。でも今では80%以上の人が、ぜひ旭川の業者に作ってほしいと依頼してきます。旭川の職人たちが作った方が良いものが出来るという評判が世界中に広がった結果です。
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石原 |
毎回どれくらいの応募作品数ですか。
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長原 |
毎回世界中の約50カ国から1,000点くらいです。応募されたCGの中から第2次審査に進む入選候補を30数点に絞ります。最高賞は「ゴールドリーフ」で、入選作は30点以内と決まっていますから何点かは最終審査で落選です。
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石原 |
製作費は個人の負担ですか?
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長原 |
最終審査の「実物」づくりは、材料代を主催者が負担し、製作は各社が分担で行います。1〜2回目の頃、旭川の多くの家具業者はまだタンス等の箱物を中心に製造していて、椅子などのコンペ応募作の製作には見向きもしなかったのですが、今ではすっかり様変わりして、小さな工房の人達も自ら名乗り出てくるようになっています。
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石原 |
なるほど。
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長原 |
でも商品化を考えた時、デザインコンペの入賞作品はそのままでは売れる見込みはほとんどありません。コンペ作品はみんなアイデアなどの先端を競い、売れるかどうかは無関係につくられていますから、我々が市場に出そうとするとかなり修正を加えなければなりません。そのようにして、入選作品が商業ベースで成功した例が相当数出てきています。だから旭川の多くの家具屋さんも製造を積極的に引き受けるようになってきたのですが。
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石原 |
世界中から応募してくる人はプロ・アマ関係なしですか。
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長原 |
大体学生に始まってプロの40歳くらいまでです。プロで充分仕事ができる人は応募してきません。落ちたら恥ずかしいですもの…。だから登竜門です。
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石原 |
旭川のコンペというのは世界の中ではどのような評価でしょうか。
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長原 |
「旭川国際家具デザインコンペ」は、いま世界のトップです。かつてミラノに「トリエンナーレ」という歴史のあるコンペがありましたが2002年に20回目をやって幕を閉じました。ミラノのドゥオムのそばの百貨店「ラリナシャンテ」が主催して1923年に「ビエンナーレ」、5回目からは「3年毎」に変更し、第2次大戦中も休まなかったようです。そこで1950年頃に一世風靡したのがデンマーク家具で、最高賞の「コンパスロード(黄金のコンパス)」を獲りました。ハンス・J・ウェグナー、フィン・ユール、ボーエ・モーエンセン達を輩出した時代です。僕も「コンパスロード」が欲しくて憧れてた時代がありますよ。旭川もそれを参考にしながら、3年ごとのトリエンナーレ方式で「国際家具デザインフェア」を開催して来たのです。
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石原 |
いま8回目を終わったところで、今後20年くらい先まで開催すれば、いよいよ世界の伝統あるフェアに定着していくのでしょうね。
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長原 |
その可能性は大いにあります。しかし、そのためにはこの地に「大学」が必要なのです。こういう国際的規模のイベントの開催には、産・官・学の強い連携が不可欠ですが、その一核をになってきた北海道東海大学が間もなく閉校になってしまいます。この旭川にある東海大学は建築工学と工業デザインに特化した特徴のある大学です。その「学」が間もなく旭川から無くなろうとしているのですから、まことに大問題なのです。「旭川国際家具コンペ」を家具木工に限らず、先々は金属工芸や焼き物、ガラス工芸なども視野に入れたイベントに育てようと考えていた矢先のことですから。
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石原 |
ミラノの「トリエンナーレ」も建築や家具も含む広い分野のコンペだったそうですね。
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長原 |
そうです。それと同時代に誕生した「バウハウス」も、建築から工芸まで広い分野で活動をしました。ナチスの台頭があって廃校におわれましたが、ドイツばかりでなく世界全体に20世紀のものづくりやデザイン全般に影響を与え、方向を示しました。金属、それもステンレスで家庭用品を作ってそれを普及させたのも彼らです。なにせ工芸もドイツがやると工業的大量生産的になります。
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