石原 |
その意味で「第二次大戦後の世界」というのは何でしょうか。
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長原 |
19世紀始め欧米に起こった「産業革命と資本主義」は、武器生産や輸送機関などの支配体制の強化の方向には力を発揮しましたが、20世紀の半ばまでは上層部や資本家だけが富み、下層の労働者達は詐取され苦しめられてきましたよね。第二次大戦後になってはじめて、「西側」資本主義陣営側で民主主義が進行してきて、職業選択も自由になり、労働賃金も上昇し、ようやく一般の人も「暮らしの道具」を買えるようになってきたというわけですよ。日本の戦前はもっと劣悪で、小林多喜治の「蟹工船」や細井和喜蔵の「女工哀史」に見るような悲惨な庶民が多数でしたよ。しかも私が生まれた北海道は、日本全体の中でも特に「貧しい側」に属していたわけで、開拓の歴史を紐解いても過酷な状況の話がたくさん出てきますよね。
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石原 |
そうですね。
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長原 |
そんな北海道に生まれた私は、たまたま家具を作るようになってからは、「美しく良いものを大量に作り、誰もがそのようなものを持てるようにしたい」とずっと考えてきました。その「大量に作るシステム」を私は若い時にヨーロッパに行って学び、その後日本でそれをやってきた、ということになります。私の人生の一貫した思想の根っこは、かつて味わった「北海道の生活の貧しさ」から来ています。
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石原 |
はあ。
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長原 |
第二次大戦が終わった頃の日本は、エンジニアリングでは欧米より遙かに遅れていました。産業革命の思想が日本に広がることが遅かったということですが、そんな時代の中で、私のような北海道開拓農民の3代目はほんとに貧乏な育ち方をしていましてね。その貧乏な環境で育ったヤツが、ヨーロッパのその時代の文明を直接目にしてね、「彼らはみんな我々より相当豊かだ」という現実を知るとね…。やっぱり自分もそれを日本でやりたいと思うじゃないですか。
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石原 |
なるほどねぇ〜。
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長原 |
しかも西欧のその豊かさは何で実現できているのかといえば、帝国主義のもとにおこなわれた植民地からの収奪ですよ。東南アジアや日本から上質な木材を我が物顔に安く大量に手に入れて、彼らだけがその豊かさを享受しているところを見るとね、「植民地経済はもうごめんだ」とやっぱりこれは抵抗しますよ。
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石原 |
開拓民の3代目ですか。
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長原 |
明治時代に私の祖父母は富山から北海道へ入植したそうです。屯田兵ではなく一般の入植民として。…私は今まで誰にも言わなかったことですが、その祖父母の入植の理由は、どうやら「駆け落ち」らしいんですよ。
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石原 |
ほぉ。
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長原 |
祖父はその昔、富山の庄屋に奉公に入ったそうで、そうこうしているうちにやがて、その庄屋の娘とイイ仲になってしまったのですって。当時の常識ではそんなことはとても許されず、そこで二人で手を取り合って密かに北海道に逃げてきたということなのです。
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石原 |
逃げる先としてわざわざ北海道に…。
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長原 |
実は富山からは海を渡ると北海道は近いのです。その頃日本海では北陸と北海道の間に「北前船」のようなものがけっこう行き来していましたから、きっとそんな船に潜り込むようにして乗ってきたのだと思いますよ。僕の家に、開拓農家の貧乏な家にねぇ、不似合いなものが2つあったのですよ。1つは漆塗りの「高足お膳」とその器6脚分。それと蓄音機です。それはそれは不思議なものが我が家にあったことをよく憶えています。
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石原 |
それがお祖父様の…。
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長原 |
僕がドイツに行ったのが1963年、28歳の時でした。行ってしまえば多分もう祖父に会えなくなると思って入院先に行ったところ、「お前はやっぱり俺の血を引いているんだなあ。」という話からねぇ、その「駆け落ち」の話をしてくれたのです。そして「そのウルシ塗りのお膳と蓄音機は、初めての息子、つまりはお前の親父が生まれたことを聞いて、ようやくその庄屋から「嫁入り道具」として送られてきたものだよ」とね…。“不似合いのもの”がそれだと言われて、その時はじめて「ああ、なるほど」と納得です。
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石原 |
お祖母様は…。
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長原 |
祖母は終戦の1945年に50代で亡くなっています。祖父は私がドイツに行くということで、わざわざそんな話をしたのでしょう。祖父は誰にも話したことがないようで、兄姉7人の中で僕以外この話は知らないようです。でも話を聞いた後、僕は自分に誇りを持ったし、祖父母を尊敬するようになりましたよ。
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