石原 |
1年の職業補導所とその後は熊坂工芸社で7、8年経験を積み、ドイツに行かれる頃には、家具づくりに自信いっぱいでしたか。
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長原 |
その頃には独立する意思もありましたし、自負心のようなものは芽生えてはいました。だけど、ちょうど20歳の頃でしたが、ある方から「これからの職人はデザインを知らなければならない。」と強い指導を受けたんですよ。
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石原 |
その頃旭川市立で開設された木工芸指導所の初代所長松倉定雄さんという方からの…。
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長原 |
そう、その松倉さんに出会っていなければ私の人生はただの職人で終わっていたと思うのですよ。松倉さんから教えられた「デザイン」という言葉はとても魅惑的でした。1955年頃の日本ではまだ「デザイン」という言葉も考え方もほとんどない時代で、旭川辺りでそんな本や資料も見たことがありませんでした。でも松倉さんは商工省工業試験場というところにいた方で、書斎を訪ねていったら外国の本もたくさんありました。「デザイナー」という職業が西欧にはあって、その人たちの作品の書籍も出版されていることを知って「すごいなぁ」と思いましたね。それまではただ「技は先輩職人から盗め」といわれて過ごしてきた20歳の僕に、その頃世界の扉がちょっと開いたのです。
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石原 |
はあ〜。
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長原 |
そこでデザインの勉強をと私は奮起して東京へ行ったのです。通産省の外郭団体で産業工芸試験場というのが、全国の地場産業従事の若者を集めて無料で「デザイン」指導をやったのです。通産省は地場産業を輸出産業に育成したいという大きな目的があったようで、私は松倉さんの推薦を受けて応募しました。それまで稼いで貯めていた30万円ほどを全部持ってね。そして、それを東京の3ヶ月でスッテンテンに使っちゃってね〜。
実はその頃、小田実の「なんでも見てやろう」を読んじゃったんですよ。僕もそれをやってやろうと、東京でしかできないことを手当たり次第にやりました。昼はちゃんと勉強して、夜にですよ。
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石原 |
一番、何に使いました?
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長原 |
まあ〜いろいろと…。でも、一番突っ込んだのは丸善や紀伊国屋の洋書コーナーで、デザイン系や建築系の本です。重いし高いのですが、買い集めてむさぼり読みました。その頃は英語もドイツ語も読めないのですが、そういう本は写真が多いから興味を引かれるのですよ。幸い、工芸試験所には世界中の家具などの現物もコレクションしてありましたしね。巨人阪神戦も見に行ったし、芝居、落語、有楽町のミュージックホールのストリップも、地方では経験できないようなことを何でも経験しました。それで結局30万円は3ヶ月ですっからかん…。
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石原 |
今でいえば数百万円になりますよねぇ…。
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長原 |
それでもなんとか上野から旭川行きの切符をギリギリで買って思ったのは、「やっぱりオレは北海道に戻るのではなくてヨーロッパに行きたい」ということでした。なにか身体中から沸き立つような気分が満ちあふれていましてね。だけどお金も使い果たしてしまっていて…(笑)。そのまま東京で仕事をしようとも思ったのですが、稼いでもそのお金を全部使ってしまうのは見え見えなんですよ(笑)。それでまあ、「ともかく旭川に戻ってヨーロッパに行く金を貯めよう」と帰ったのですよ。
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