石原 |
ともかく1968年に株式会社インテリアセンターはスタートしました。それでビジネスも上々で…。
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長原 |
いやぁ〜それがねぇ…、作りましたが地元の旭川や札幌等では全く売れないのですよ。ヨーロッパ仕込みそのままの“バタ臭いもの”でしたからね。設立2年目になって、ほとほと困って、札幌の建築家の上達野徹さんという方に相談に行ったのですよ。バウハウスもよく勉強なさっていた方でしたが、「これは君、北海道ではムリだ。でも東京では売れるはずだよ」と助言してくれました。
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石原 |
それまでの2年間はどんな状態ですか。
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長原 |
最初の一年間は工場を造ったりしていて物を生産していません。69年になって作り始めたのですが、そうなれば材料を買い、給料も払わなければなりません。手持ち資金はどんどん無くなり、必死で売り先を探している時に上達野さんに「東京に行け」といわれたので、なんとか東京に行って百貨店に売り込みを始めたのです。そうしたら割合スムーズに売れ出したのです。初めに訪ねたのが新宿小田急百貨店で、別館の輸入家具専門店「ハルク」の家具部長にお会いしました。「これ何となく北欧臭いけど面白いねぇ」と言いながら値段を見て「これなら売れるかもしれんよ、やってみよう。」ということで扱ってくれたのです。
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石原 |
はあ。
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長原 |
実際に売れるまでには1ヵ月かかりましたが、1脚売れるとうまくいくものなのですねぇ。その後は次々に売れて行き、そこでやっと日の目を見ました。それは記念すべき椅子なので、我が社に今でも置いてあります。
実は後になって私にもわかったのですが、その頃ハルクの輸入家具は主にデンマークやスウェーデンのもので、東京ではみんな欲しがっていたのですが、高くてなかなか売れず悩んでいたのですね。なにしろ1ドル360円で輸入してくるわけですから。でも「潜在需要」は間違いなくあると思っていたところに、ヨーロッパ製と同じ北海道材を使い、北海道で作ったものが約半値ですから、「これなら売れる」と部長は判断なさったのだろうと思います。札幌の上達野さんもそれは感じ知っていたのでしょう。
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石原 |
ハルク側も「渡りに船」だったのですね。
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長原 |
そしてハルクで売れ始めたという情報が他の百貨店のバイヤーに伝わり、2カ月もしないうちに三越や高島屋からも買いに来てくれて、営業に出向かなくても良くなりました。波に乗るというのはそういうことでね〜。
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石原 |
東京に行かれたのは本当にタイムリーでしたね。アパレルの世界でも、銀座の「サンモトヤマ」がディオールやグッチなどのヨーロッパブランドを輸入販売し始めた頃です。普通の人が買える価格ではなかったようですが。
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長原 |
そのタイミングの進出でしたから、毎年15%ずつ売り上げが伸びていきました。そして1978年には、インテリアセンター創立10周年記念として「Hockファニチャー ショー」を日比谷の帝国ホテルの真ん前にある日生会館のホールを借りてやりました。ショーとしてスエーデンからのデザイナー1名、東京2名、札幌と旭川から各1名をノミネートして、競作してもらいました。もちろん僕のデザインしたものも置いてね。そしたら、そのショーが大変な反響を呼んで翌年の売り上げが一挙に35%アップします。製造が間に合わなくて人集めが大変でした。
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石原 |
はあ。
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長原 |
東京や大阪の主だった百貨店との取引は、その頃の一般的な取引慣行が出入りの問屋さんを通じて行うものでした。その問屋さん達はみな資金力があって、どこも一度に国鉄コンテナ1台分の家具を注文してくれましたよ。まぁ、日の出の勢いというものでしょうかね〜。
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