石原 |
そこは結構な都会でしたか。
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長原 |
いやぁ、田舎田舎…。今は変わりましたが当時の名では「ラーゲ市 字レッツェン」というところです。ラーゲ市はドイツ中央部のやや北のかなり広い面積の都市ですが、「字レッツェン」は人口2千人ほどで人間関係も緊密なゲマインシャフトの村でした。農業中心で、家具工場はキゾ社1カ所だけです。ただ20kmくらいの範囲に家具工場が2、30軒あり、その辺りはドイツの家具の中心地の1つでした。
キゾ社は、壁に取り付ける「ウォールキャビネット」といわれる寝室家具を主力にして、小さな整理ダンスやベッドも作っていました。西ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク辺りがマーケットで、従業員は150人位の中規模の工場でした。
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石原 |
キゾ社はいかがでしたか。
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長原 |
キゾ社の家具はクオリティとしては「中の中」くらいでしたね。ただその頃は第二次大戦が終わって十数年、ヨーロッパ各地にはすさまじい需要があったのですよ。ドイツ国内はすごく労働力不足で、スペイン、イタリア、ギリシャ、トルコ等から出稼ぎがたくさん来ていました。「研修生」として行った私も、そこでの立場は外国からの出稼ぎのひとりに等しかったので、普段はギリシャ人やトルコ人らと一緒の宿舎で暮らし、皆と同様に仕事に応じて賃金ももらいました。ただキゾ社の社長は、クリスマスには自宅に呼んでくださったり、誕生日にはケーキを差し入れてくれたり、他の出稼ぎの人たちとはちょっと違う心遣いをしてくれましたよ。
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石原 |
その田舎暮しと工場での仕事には、渡欧前の期待との落差を感じたりしませんでしたか。
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長原 |
もちろん田舎でしたが、キゾ社の広い視野を持った経営やマネジメントの仕方はすごいんですよ。製品を作りあげ、エンドユーザーまで配達する仕組みはコンピューターもない時代にもかかわらず、実に緻密に計画されていました。日本の問屋制度とは違って、各地にいるディーラーが注文を取り、そこから工場にオーダーが入ります。でも出来上がった家具は、工場が直接エンドユーザーに届ける仕組みです。「まぁ出稼ぎでいいや」と割り切ってはいましたが、直接の仕事以外のことをいろいろ観察をしていたので、私はそのような仕組みであることがわかったのです。金曜日には大きなトラックが横づけされて、走るルートの降ろす順に製品を積み込むのです。「なるほど上手いことをやっているものだ」と思いましたねぇ…。
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石原 |
はあ。
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長原 |
それとね…、休憩時間に事務系の書類がある物置部屋に私は無断で入っちゃうんですよ。その書類の中には原価計算の資料などがあるのですね。それをね…、ちょっと黙って拝借してくるのです…(笑)。夜に辞書を引き引きそれを見ていると原価計算の仕組みも大体わかりました(笑)。自分が日本で職人修業時代に「真似ろ!」「盗め!」とか言われたその精神をここで存分に発揮してね。(笑) |
石原 |
はあ、はあ。
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長原 |
当時の日本のやり方と決定的に違っていたのは、まずヨーロッパ各地を広くカバーするための「営業の仕組み」です。それと工場では要所要所のマイスターが行う「生産管理システム」です。もう1つは高度な機械設備による「生産の合理性」ということでした。彼らは日本より20年は先を行っていると思いました。
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石原 |
日本の場合、例えば熊坂工芸ではどのようなものだったのですか。
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長原 |
社長や専務などが注文を取ってきて、それを職人一人一人が請負で作ります。各職人はバラバラで、生産システムなどはありません。だから例えば役場から受注した場合、椅子だけでも100脚くらいの数になりますから、当然何人かで手分けして作ります。すると人によって出来上がりが違うのです。品質もバラバラ(笑)。向こうでは絶対にあり得ないことで、「品質の基準」があり、それに費やすべき時間までコスト計算をして設定されているのです。設備や道具も圧倒的に違いました。もちろんその頃は手でやる部分も結構ありましたので、「お前は器用だ」ということで僕は手仕事の方に廻されましたが…。 |
石原 |
設備道具の差を、分かりやすい例で言っていただくと…。
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長原 |
カンナを使って手で木材を削るのとベルトサンダーで研磨(研搾)する違いといえば分かりやすいでしょうか。日本では「職人技」と自慢し、今でも建具工場や宮大工の人達にはその世界があるようですが。でも工場生産は均一なものを大量に作るのが目的ですから、生産段階で個人差が出てはいけないのです。ドイツではそういう仕組みが非常に良くできていたということです。
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