今津 |
でも、親に東京の私大にまで行かせてもらい、なけなしのお金を送ってもらいながら勉強もせず応援団ばかりをやっていて、しかも生きるか死ぬかの事件も起こして、さすがにオレはこんなことでいいのかと考えたのです。
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石原 |
なるほどね〜。
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今津 |
そこでふと思い出したのが川田正則さんで、そのころ松浦周太郎代議士の秘書でした。川田さんの奥様と私の姉が舞踊を通じて知り合いだということを聞いていたので、議員会館に川田さんを訪ねて行ったら、「君が今津さんの息子か」と会ってくれました。そして偶然川田さんも中央大学のラグビー部でしたので、「好きな時に来て勉強をしなさい」と言ってもらえました。
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石原 |
はあ
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今津 |
4年生のほぼ1年間、応援団の合間を見ては議員会館事務所に行って、予算が付いたことを地元選挙区に知らせる電報打ちとか、松浦先生がサインした色紙にハンコを押すとか、お客様にお茶を出すなどの雑用をしました。
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石原 |
4年生ですが、就職活動はどうなさったのですか?
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今津 |
川田さんが「いいよ」と言ってくれていたものですから、松浦先生の秘書をやらせてもらおうと自分で決めていました。
卒業した直後に背広を着て事務所に行ったのです。ところが川田さんが不在で、その下の秘書に「そんな話は聞いていない。何言ってるんだ。帰りなさい。」と言われたのです。川田さんが戻ってこられるまで待たしてくれと言えばいいものを、私も若くて潔癖でしたから「それならいいです」とスタスタ帰ったというわけです。
私はそのまま地下鉄に乗って銀座に出て、川田さんの息子の修さんと「赤ひょうたん」という店に行ってサラダなんかを食べながら、「さて、どうしようかな・・・」です。
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石原 |
はあ、はあ・・・。
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今津 |
しかたなく友達や後輩のところに居候して、しばらく何もしないで遊んでいました。
そうこうするうちに川田さんから「旭川東高同期の親友で、森山病院院長森山元一さんが旭川市長選挙に出るので、あんた手伝わないか」と声がかかってきたのです。もちろん二つ返事
でお受けして、秘書として旭川に戻ってきたのです。まだ若造で大したことは何もできませんでしたが。
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石原 |
相手の候補は?
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今津 |
五十嵐広三市長の3期目です。1971年の選挙でしたが、五十嵐さんはその頃人気絶頂で強かったですね〜。必死に頑張ったのですが負けました。
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石原 |
はあ
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今津 |
それで私は、その直後の市議選に出ようとしたのですが、まだ24歳だったので被選挙権がないのですよ。やむなく次の選挙まで実家の魚屋で働かせてもらい、もっぱらタコだとかの大衆魚の方を担当して、早朝から市場のセリに出かけては店でそれを売っていました。刺身はまだ切らせてはもらえず、三枚下ろしや切り身をやってました。
自民党の青年部にも入り、次の市議選を待つこ
と4年です。「旭川の一心太助」を旗印にいよいよ選挙に打って出ました。
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石原 |
28歳で市議に最年少の初当選、いよいよ政治家としてのスタートですね。
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