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第3回 親父は本当についていたのかも知れませんね。 吉田:それは私が小学1年生の頃、寒川に疎開していたんですが、 何年かたって・・・小学5年のときかな。 親父が戦地から帰ってきました。親父はそもそも戦地に出征するとき・・・。 出征というのは赤紙一枚で急に行くわけですから、 まず飛んでいったのは大阪のお得意さまの集金でした。 そして支度して否応なく入営という形です。 その後をお袋が継いで「背嚢」(背中に背負う軍用の鞄)などを 作ったりしていたのですが、空襲がだんだん近付いてくる、 それでまだ元気だった祖母が、とにかくみんな田舎に行きなさい ということで須田町の工場をたたんだんです。 その時工具だとかミシン、革スキ機、自転車やリアカーだとか というのは持っていくわけにはいきません。 困っていると、当時は連帯感だとか人情というか皆ありまして 「よし、それだったらオレのところの倉庫にひとまず入れてけよ。」 といってくれた方ありました。 それが「佐志田倉庫」。 今もありますが、その倉庫がたまたま鉄道の高架下なんですね。 そこへ品物、材料等残っているもの全部入れて田舎へ引きあげたんです。 親父が戦後戻ってきて「あ、そうだミシンなんかが・・・」と 言っていたのですが、当時東京は一面の焼け野原。 しかしあの倉庫は高架下だし、鉄筋だしひょっとすると ひょっとするかもしれない、と思いましてね。 それで親戚がとんでいったところ、 そっくりそれが焼けないで残っていました。 しかもそこにはキャンバスなどの生地も無事でね。 石原:焼け野原の中で運良く・・・。 吉田:ええ、焼け野原。この神田もそうですが そこから両国橋も丸見えというような中で本当にラックなんですよね。 親父は本当についていたのかも知れませんね。 石原:そうですね。運良くそういう場所で預かってくれたことが。 吉田:それと当時は交通機関が難しくてね、 それを疎開先まで持っていくのが大変だったのですが、 たまたま親父の兄が品川駅の助役をやっていましてね。 貨車一両まわしてくれて、それに全部積んだんです。 石原:そんなに多かったんですか。 吉田:もちろん、ミシンから革スキ機から、リアカーまでですから。 親父は復員してきた時は栄養失調でどうしようもない。 まず体力を回復させてからモノ作りに取りかかったんですよ。 石原:なるほど・・・。 吉田:戦前はもちろん統制がありましてね、 皮革というのは買えなかったんですよ。 ところが軍事物資を扱っている所では自由に買えてました。 それが全部残っていました。 石原:ヘェ。 吉田:それでキャンバスに革底という、革はヌメ皮なんですが それをつけたリュックサックを作ったんです。 いまだに私は憶えているんですが、 それを土曜日になると東京に売りに行くんですよ。 石原:はい。 吉田:それが私が小学5年生の時で憶えているんですけど、 今の銀座通から上野に近い秋葉原まで 一面の焼け野原に露店がずらりと並んでいたんです。 その後、立派なお店になった所も元はみんなその中から。 石原:掘建て小屋ですか? 吉田:いえ、テントです。そこに座ってやっていました。 残っていた建物は今の銀座4丁目の和光や三越なんかの 鉄筋コンクリートの大きいのだけでした。 あとはみんな焼けて、そんなところに親父と2人で売りに歩いたんですよ。 当時はモノがないですからあれば売れるというか、 もう引っぱりだこなんですよ。 私もリュックを背負って親父は両手一杯抱えて そこで現金をもらってそれをそのまま蔵前の、今の厩橋ですね。 そこで糸とノリを買って田舎へもどるという、 そういう週末を過ごしていたんですよ。 石原:なるほど・・・。 吉田:そんな時です。モノがあれば売れる時代ですから。
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