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第6回「人と話をしているのが楽しいという人には
    アトリエの孤独はとても耐えられないですよ。」


石原:話題をかえて。
・・織元の本を読まさせていただきますと、
ひたすら機織が好きで・・・というような事を
お書きになられてますよね。
それとお若い時に放送作家をなさったりということなども。

木内:昔はね、文学少女だったのです。
学校も文学部の方を希望してたくらいですから。
当時、旭川NHKに放送作家クラブというものができました。
メンバーは7人、女性は私が1人。
月に1本づつ書くということで始まったのです。
自分のはいいと思ったり、自信を失ったり、
それでも書いたものが放送されて、
それでもまあ、放送されたのだからいいではないか、
と思ったりしていました。

石原: テレビではなくてラジオの時代ですね。

木内:ええ、まだテレビはありませんでした。
それから20年くらい経って、引っ越しで荷物を整理していたら、
その頃の台本原稿が出て来て、
読んだら、それはそれはなんといったらいいのか・・・
よくこれが放送されたと恥ずかしくて(笑)。
これは生きている間に暖炉にくべてしまおうと。
まだ置いてありますが。

石原: お書きになることはお好きですね。

木内:好きですが、
書くのはエッセイみたいな、もう、ミミズの戯言です。
小説はだめです。
放送クラブに入った時は
勉強したいと真剣に思ったのですが。
そのころ旭川では、宮之内一平さんの「豊談」が長く続き、
その後、佐藤喜一さんの「冬濤(ふゆなみ)」という
全国でも有名な同人誌がありました。
芥川賞、直木賞候補に木野工さん、三好文夫さんなど
何人も名前があがるほどの同人誌です。
その喜一さんに「冬濤に来ないか」と誘われましてね。
「皆さんのように書けないですから」と言ったら、
「いいでしょう。エッセイ書けば」と。
それで「冬濤」に入りました。

石原: 「冬濤」は一応、小説中心なんですか?

木内:小説、創作、評論ですね。
エッセイなど書く人はいませんでした。
あの高野斗志美さんもいました。
喜一さんが亡くなって「冬濤」は分散してしまいましたが。
喫茶チロルの下村保太郎さんが主宰していた
「情緒」がまた全国的に有名な詩人の集まりなのですよ。
「うちにこないかい」といわれて
「理屈っぽい人達が多いでしょう。」と言ったら、
「気が向いたらエッセイを書けばいいから」と言っていただいて、
それで今度は「情緒」の同人になりました。
もう渡り鳥ですよ。

石原: お幾つくらいから書かれてましたか。

木内: 20代くらいから書いていたのじゃないでしょうか。

石原: 油絵もなさっておられたということですが。

木内:悪戯程度です。
描くといっても、恥を描く程度。
すぐにやめました。
才能もないのにあっちもこっちも
やってみてもしかたがないですから。

石原: 放送作家の時は、ドラマ作家だったのですね。

木内:そうなんですよ。
その時NHK旭川の放送部長に
新任でこられた家城さんは、本局でも有名な人で、
赴任早々「旭川放送作家ペンクラブ」をつくられました。
なぜ私が入ったのかは分かりませんが。

石原: その時は何をなさっていたのですか?本業は?

木内:その時は美容室でした。
戦後間もなくでしょ。食べて行くのに、
喫茶店ではバーテンさんが必要だし。
美容室がいいよ、
と助言してくれた人がいて、
それで資格のある方を雇って。

石原: 織元も資格をもっておられるのですか?

木内:その時は美容室の美の字も知りませんでしたが、
すぐに山野美容院で国家試験の免許を取りました。
でも、やはり私は客商売というのは性に合わなかったんでしょうね。
私のようにアトリエで30年も40年も
飽きずに仕事に打ち込んでいられる人間というのは、
一人で仕事しているのが楽しいからですよ。
人と話をしているのが楽しいという人には
アトリエの孤独はとても耐えられないですよ。

石原:僕も学生のころ、小説を書いたという時期がありますが、
あの孤独には耐えられなかったですね。

木内:私は一人が好きなのですよ。
東京で学生のころ、文章を書きながら、
機織をするようになって・・・

石原: その頃から機織をですか?


>>次回は、織元が織物を始める事になった頃のお話です。
  お楽しみに。





2006 spring
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木内綾と優佳良織略歴

昭和37年「優佳良織工房」発足
昭和43年-開道百年記念式典にご来道の昭和天皇・皇后両陛下に献上
昭和45年優佳良織民芸館 開館
昭和48年「日本の美術展」招待出品(パリ市)
昭和51年ハンガリー国際織物ビエンナーレ招待出品/「日本工芸展」招待出品(スペイン・バルセロナ市)
昭和52年日本民芸公募展、最優秀賞/「日本伝統・現代工芸展」招待出品(ギリシャ・アテネ市)
昭和53年国際織物ビエンナーレ、金賞
昭和55年優佳良織工芸館 開館
昭和57年「優佳良織・木内綾展」(東京・大阪・九州)読売新聞社主催
昭和58年ニュージーランド・国立オークランド博物館主催「木内綾展」/奈良薬師寺に「旙」四流奉納
昭和61年国際染織美術館 開館
昭和62年日本現代工芸美術展招待出品、内閣総理大臣賞/北海道文化賞
平成元年通産省ふるさと再発見、通産大臣賞
平成3年雪の美術館 開館
平成7年文化庁長官賞
平成10年北海道功労賞
平成12年「優佳良織/木内綾作品展」朝日新聞社主催(東京・神戸・名古屋)

これまでの特集対談

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