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第1回「ユナイテッドアローズ 常務取締役クリエイティブディレクター/栗野宏文」 どんなに服を素敵に着ていても、その人らしくなければステキじゃないし、全然時代とかけはなれた服を着ていても、あの人らしいねぇといえる人はカッコいいですよね。 石原:本日は、お忙しい中を「OKUNO journal」のために 時間を割いていただき本当にありがとうございます。 「栗野さん」といえば、おしゃれで、博覧強記、鋭敏な感性、 深い知的ベースメントの方とファッション業界ではつとに有名です。 洋服の専門店の重要スタッフというお立場で、 どのような目線で世界を見ているかということと、 「栗野宏文の世界」の広がりをぜひ覗かせていただければとの思いで、 インタビューできることをずっと心待ちにしておりました。 栗野:わかりました。 石原:早速ご質問させていただきます。 お生まれはいつですか?東京ですか? 栗野:1953年です。父の仕事の関係でニューヨーク生まれです。 そして1才半までいました。 その後4才から6才の時はオーストリアのウィーンです。 6才の9月には向こうの小学校に入ったのですが、 半年で日本に戻りました。 ニューヨークは全く記憶がないのですが。 ウィーンはけっこう憶えています。 石原:小学校では言葉はドイツ語? 栗野:ええ、オーストリアなまりのドイツ語です。 さいわいに子供ですから頭がやわらかいので、 自然にその小学校でドイツ語を話していたのだと思います。 石原:私も一度だけウィーンに行ったことがあるのですが、 すてきな街ですよね。 栗野:ええ、きれいな街ですよね。 良くも悪くもヨーロッパ的な街ですね。 古いものはそのまま残っているし、文化の香りもあふれて、 美術館もオペラハウスも立派だし。 でも娯楽がないものですから。 その頃父親が連れていってくれる娯楽というのは、 オペラか美術館でした。 子供にとっては退屈なところですが、 今考えると良いものを見せてもらったと思います。 オペラも音楽も美術も好きになったのは、 その頃にすり込まれた結果なのかも知れません。 石原:なるほど。 栗野:僕は実はウィーンでも、日本に戻った時も、 両方で「人種差別」を体験しました。 向こうでは確かに可愛がってくれる人もいたんですが、 そうでない人には物めずらしい存在なのでしょうね。 あるとき川原でピクニックをしていたら、頭に石を投げられましてね。 その子は当てるつもりがなかったのだと思いますが。 東京に帰ってきたのは50年代末ですが、 その頃まだ帰国子女なんてめずらしかったので、 それがまた何となくいじめられるんですよ。 石原:例えばどんないじめを…? 栗野:50年代の終わりですから、まだ戦後十数年です。 「お前なんかアメリカの味方だろう」なんて言われたりしたんですね。 石原:お父様のご職業は? 栗野:外交官だったんです。 石原:オーストリアのあとも海外ですか? 栗野:いろいろいじめに合うのもいやなので、 兄貴と二人でその後はずっと日本に残って。 だから早い時から親離れしてました。 高校からは一人暮らしです。 兄貴がロンドンに留学してしまったものですから。 石原:日本ではお住まいは東京ですか? 栗野:アメリカから帰った4年間は、 今の原宿のユナイテッドアローズ本店の かなり近いところに住んでたようです。 ウィーンから戻ったあとは、世田谷にあった外務省の寮にいました。 世田谷には岡本やなんかの高級住宅街もあるんですが、 僕の育ったところは田舎で、ついこの間までは田畑がありましてね、 牧場もあったんですよ。 石原:へぇ、乳牛のですか? 栗野:三井牧場というのがありました。 それがやがてサラ地になって、団地ができて、 今そこに僕は住んでいるのですが。 ですからずっとそのあたりばかりに住んでいることになります。 偶然ですけどね。 石原:国際人も実のところは世田谷の一点をウロウロしていますか? 栗野:ええ。(笑)まぁ振り返れば、 4才か6才までいたオーストリアのことは、 あとでポロッポロッと出てくるんですよ。 石原:やはり人生の原点? 栗野:たぶんそうでしょうね。 例えば日本に帰ってきて子供心に「あ〜」と思ったのは、 当時のセロテープの完成度が日本のものは低いんですよね。 ステーショナリー関係のデザインが 可愛くないと思ったことを憶えています。 だからプロダクツデザインとかグラフィックデザインとか 絵本の装丁とか、子供ながらに比較したんでしょうね。 >>次回は、栗野氏の仕事「クリエイティブディレクション」について。 お楽しみに。
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