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第1回 小菅正夫/旭山動物園園長 インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長 冬になると竹スキーを履いて、 馬車の後ろに掴まって遊んでました。 石原:大変ご多忙の折、お時間を取っていただき、 本当にありがとうございます。早速ですが、 お生まれなどお聞かせくださいますか。 小菅:1948年,札幌の狸小路の隣、南3条通7丁目の生まれです。 今と違ってその頃は、あの辺りにはともかく子供が多く、 馬車もたくさん走っていましたよ。冬には竹スキーを履いて、 馬車に掴まって遊んでね。 馬糞の固まりにスキーが引っかかって、 結局ひっくり返ってしまうんですが…。 当時、実家はシャツやパンツや靴下などを扱う繊維の卸商です。 自転車の後ろにつけた「リアカー」で配達をするのですが、 私もよく手伝っていましたよ。 狸小路はまだアーケードのない時代で、 盆踊りがあったり、 仮装行列があったりねぇ。 狸小路はいつでも一番人の集まる、ともかく賑やかなところだったですよ。 小学校は自宅の目の前の西創成小、中学は陵雲といって、 北大植物園の西側にあったんです。 札幌の中心部はどんどん発展して人口が増えてきてましたから、 生徒数も増えて体育館をベニアで仕切って教室にしているぐらいでした。 石原:私には、札幌駅から北への道は汚いどろんこの通りで、 粗末な木造家屋が多かったような記憶がありますが。 小菅:札幌駅の北側には北大以外何もなかったですよね。 鉄北地区と言ってましてね。 子供心にそちらは危険だと思って誰も行かなかったですよ。 高校は札幌南高で、大学は北大です。 皆さんが想像している以上に彼等 の能力はスゴいんですよ。 石原:旭山動物園に来園される皆さんは、 どのあたりを一番楽しみにされていると見ておられますか? 小菅:動物園は、限られた空間です。 でもその中で、「動物たちがそれぞれ自分らしく生きている」と感じていただいているところだと思います。 来園者の方々を見ていてそう思っています。 例えば、皆さんの頭の上でヒョウが寝ているところを見れます。 皆さんはそれぞれの動物のことをよくご存知です。 でも下の方から身近に見上げることで、 野生のヒョウはこんなふうにして寝ているんだと実感できます。 ペンギンも、すごいスピードで水中を泳ぎます。 皆さんが想像している以上に彼らの能力はスゴいんですよ。 実際にここで見ると、自分の思いのちょっと外に「動物たちの現実」があるんだと実感し、感動していただけるのだと思います。 それと何回いらしても来る度に違うんで、 「生きているものはいつも違うんだ」と感じていただいているようです。 「今日は寝ているけれど、前回来た時はねぇ…。」なんて話をされていますから。 そんなところも喜ばれているところかとも思っています。 その目が潤んでるんですよ。 よっぽど会議かなんかでキツい ことを言われてきたんでしょうね。 石原:旭川市民と動物園の話をすると、 「今の評判は、いつまでもつかなぁ〜」と必ず言います。 また、強烈な批判者もいます。「税金を使ってこんな事をやってて」とか 「所詮、動物を見世物にしているのじゃないか」とか、 意外な人からの意外な意見として聞くことが多いのですが…。 小菅:僕は、「100%の賛成」というものほど怪しいものはないと思います。逆に「100%賛成でなければダメ」と言われたら何もできません。 シンプルに言えば「51人が賛成」なら良いのではないでしょうか。 また、応援者ばかりに囲まれているとつい慢心してしまいます。 みんなに腹を据えてかかれ、と言っています。 私が旭山動物園に入った頃には「動物園なんていらない」という市民がたくさんいて、園内スタッフにも積極的な雰囲気が欠けていました。 今はありがたいことに、少なくとも50%以上の人が、 動物園の存在に賛成してくれていると思います。 旭山動物園は市営ですから、反対する人が絶対多勢であれば、 閉鎖されて当然です。 反対の方がある程度いらっしゃることについては、 どうこう言うことではないものだと思っています。 石原:公的な立場でやるのは、世論相手ですから大変ですね。 小菅:動物園の仕事というのは、一般的な公務とは大分違います。 市役所の仕事の大半は市民の生活と直結していますから、 最低でも51%の方に満足されるものを「最初から用意」していなければなりません。だけど動物園というのは一種の「主張」です。 その「主張」に対して結果として「51%」が得られるかどうかということです。ここに違いがあると思っています。 1993年頃、予算編成の際に計画書を提出に行くと、ある幹部に言われました。「市民の意見の反映がなければ、市は動けない。君らの作った計画ではなく、<市民懇話会>が作った『市民の意志』の形にしなければ予算は付かないよ」と。 僕らの計画書では、金太郎アメではない「世界のどこにもない動物園」をやろうとしていました。 そして、提出した計画を全部一度にではなく、個別にやっていく。 それを市民がみて「良いね、次もやっていいよ」と言ってくれたら、 次をまたやる。そのように段階的に常に「結果51%」を得ながら世に旭山動物園を問うていきたいんだ、と言いました。 でも、「絶対無理だ。行政というのは『皆さん、これで良いですね』と先に同意を取って、その計画通りを実行していくものだ」と言われてきました。 石原:その構想を絵にしてまとめた、いわゆる「14枚の絵」はいつ頃作られたのですか。 小菅:86年に私が係長になった3年後です。 3年間でレポート『動物園の今後のあり方』をまとめ上げて、 それを解りやすく14枚の絵にもしたのです。 石原:絵はあの、あべ弘士さんがお描きになったのでしょうが、 そもそもこれらの構想の中心人物、首謀者は誰だったんですか? 小菅:・・・(小菅園長は自らを指をさす。) 石原:ハッハッハ…。その頃の園長はどなただったんですか。 小菅:菅野さんでした。 今考えるとその頃、菅野園長は「動物園なんか潰してしまえ」に始まって、 さまざまな批判の嵐にじっと耐えておられたのだと思います。 ある時、私が古い昔の園長室に伺ったら、電気もつけずに暗い部屋でジッと外を見ておられたんです。 「どうしたんですか」と言ったら、振り返ったんです。 その目が潤んでるんですよ。 よっぽど会議かなんかでキツいことを言われてきたんでしょうね。 その菅野さんに「お前はともかく自由にやって考えろ。 お前が園長になった時はどんな動物園にしたいのか」 「ともかく考えるのだけはタダだから、若手でチームを作ってやってみろ。」と言われました。 それで、私の仲間の阿部さんと牧田さん、坂東の4人で始めたんですよ。 石原:菅野さんもスゴい方ですね。菅野さんが初代の園長ですか? 小菅:初代は中俣さんという札幌の円山動物園を退職した方で、 その時の現場は、菅野さんと小原さんという方でした。 お二人とも獣医師で、私が入った頃は、年上の小原さんが係長、 現場筆頭の菅野さんが広く全体をみておられました。 小原さんも菅野さんも、私が「こういうことをやりたい」と言ったら、 それは難しい、とか無理だよ、とは決していわず、 「よしわかった。やれ。」といつも励ましてくれました。 キャリアの浅い私の研究出張に反対する人がいた時など、 「何を言ってるんだ。小菅は獣医師だ。」と私を送り出してくれたり、 失敗の後始末までもやってくれました。 お二人には本当に深く感謝しています。 「積極的に、自由に考える」という旭山動物園の伝統は、 この辺りから始まっていると思います。 >>一生こんなに勉強することはない だろうなと思いました。でもそう じゃなかったですね。
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