第8回 小菅正夫/旭山動物園園長
   インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長


それが、いざ畳の上に立った瞬間、まさにその瞬間、
スーッと全身から圧迫感が抜けたんですよ。


石原:園長の今までの人生で、これは一番素晴らしい体験であった、
と思うことをお話しいただけますか。

小菅:う〜〜〜〜ん…………。
やっぱり一番は、あの京都大学での七帝戦、柔道の大会ですね。
私は北大4年生の時、主将になりましたが、決して強くはなかったんですよ。
先輩から「お前やれ」と言われてなっただけでした。
それに北大は七帝大の中で一番弱かったですしね。
負けてばっかりでしたから、京都に乗り込んだときは、
せめて1勝をと狙っていました。

石原:・・・・。

小菅:その当日、部員を引き連れて試合場に向かった朝のことです。
私は物凄く緊張していました。みんなはその時、
「小菅は、何であんな不機嫌な顔をしているんだ」と思ったそうです。
私は、ヒザが震え、手が震え、口が震えです。
会場までの道のりは、ずっと口を結び、
全身が固まったようになっていました。
試合場に着いてからもです。

石原:はあ…。

小菅:それがですね。それが、いざ畳の上に立った瞬間、
まさにその瞬間、スーっと全身から圧迫感が抜けたんですよ。
畳の上に立って、天井の方を見上げて、
ヤッと言って両腕を伸ばした瞬間です。
その時、一切の束縛がなくなったんです。

石原:はあ…。

小菅:以来、「あの感覚」は僕の宝になりました。
それ以来、僕は緊張して自分を見失うようなことはなくなりました。
勿論それなりの緊張をすることはあります。
でも、気負わなくなったのです。
どんなことをしても自分の力以上のものは出せないんだから、
という割り切りができるようになり、自然な心でいられるようになりました。
その時を思い出すと、七帝大の柔道部の中で一番稽古をしたのは自分達である、という自負心だけはありました。
ですからあの畳の上に上がった時、
突然「それ以上のものは出せないんだから、別に…」という気持ちになれたのでしょう。
それを教えてくれたのはまさしく「あの畳」でした。それともう一つ、
「決勝戦で負けた」ことも僕の宝になりました。

石原:はあ……。

小菅:というのは、「夢は叶えられる」とか「努力すれば報われるとか」
というのはウソであるということがわかりました。
だから動物園に入った後も、果たして新たな予算がつくかどうかわからない中でも、努力することを諦めませんでした。
努力と成果とは直接の関係ないものです。
努力したから成果があるというのは大間違いなんですよ。
ただもちろん、努力しなかったら僕はあの時畳にすら上がれなかったのではありますが。

石原:・・・・・

小菅:そのように僕が24才の時、「あの畳」の上で教えてくれたものこそ 、
自分の「人生最高の宝」だと思っています。
ともかくあの時ほどの感激はないですね。
先程いいましたように、決勝戦で負けてその後、1カ月半、
僕は頭の中が真っ白の状態のまま、
北海道に戻らず一人で四国をブラブラしていました。
親にも連絡を取らず行方不明になっていました。
でも僕はその時、つくづく帰る家があるというのはありがたいものだと思いました。

石原:はあ・・・。

小菅:なぜこのようなことをお話しするかと言えば、
あの北大柔道部の4年間で、自分が全く変わったと思うからです。
それまでの自分は、「赤面恐怖症」で、どもりもあり、
人前で喋ることなどとても出来ない人間でした。
中学時代には随分悩んだことがあります。それが、
あの瞬間から僕は別人になったと思います。

石原:それほどの…。

小菅:動物園には、気負いもなく何かに導かれるままに入りました。
獣医学部の卒業がようやく決まった時、
たまたま旭川市の動物園で求人があったんです。
学部の卒業生39人はすでに就職が決まっていて、
僕だけがまだだったのです。
ちょうどその求人にハマっただけだと思います。
僕が何かをしたからというわけではありませんでした。
「あの畳」の上の瞬間以来、
ずっと私は何かに導かれるままに生きてきたような気がします。











ですから、私の「宝」はあの時です。
昭和47年7月15日のあの試合に立てたとき、


石原:24才で、そのような感覚に自分を置ける機会を得たということは、
随分得をなさいましたね。

小菅:24才のあの時です。でもそれまでの私は、
神も仏もあるものかと無茶苦茶なことをやっていました。
北大柔道部35名を率いての練習は、
何人も気絶するような過酷なものでした。
主将になった春から、私は道場の窓を全部閉め切って、
暖かくなってもストーブを炊いてやっていましたから。
道場内は酸欠状態にもなります。
だけど、こんなことでへこたれては試合など出来ない、
といってやっていました。

石原:はあ…。

小菅:その当日、部員を引き連れて試合場に向かった朝のことです。
私は物凄く緊張していました。みんなはその時、
「小菅は、何であんな不機嫌な顔をしているんだ」と思ったそうです。
私は、ヒザが震え、手が震え、口が震えです。
会場までの道のりは、ずっと口を結び、
全身が固まったようになっていました。
試合場に着いてからもです。

石原:はあ…。

小菅:というのは、前々年は九州大、前年は大阪大で試合があったのですが、
暑さにみんな参ってしまって試合どころか、
息をするのがやっとだったんです。
当時、九州や大阪には、札幌から急行に乗って2日〜3日がかりで行き、
着いたらあの暑い中をすぐ翌日には試合ですからね。
だからまず、その暑さに勝たなければ何も始まらないと思って、
道場を熱暑の状態にして練習をやったんですよ。
でもそこまでやって、
自信を持って行ったんですが京都大学にしっかり負けてしまうのです。
地の利に負けました。そんなものは理由になりませんが。

石原:でも、決勝戦まで勝ち上がっていったのでしょう?

小菅:15人ずつ戦うんですが、1回戦、準決勝とも引き分けです。
それぞれ代表戦をやっても引き分けなんです。
当時は引き分けならば抽選です。
それで、主将の私が抽選のクジを引くのです。
1回戦は東大、2回戦も阪大に抽選勝です。
そして、僕らの狙いは、決勝戦でも引き分けて「抽選勝」だったんです。
だからみんな言ってましたよ。
「何だ〜あのチームは。全然勝ちに来ねえじゃねぇか」と。
僕らは延々と引き分けてました。ともかく絡んで引き分けて、
相手が根負けしたところで引き分けて。
そもそも僕らは弱くて、まともには勝てる話しではなかったですからね。

石原:はあ……。

小菅:それで引き分けて引き分けて、なんとか決勝まで行ったんです。
その決勝も14人目まで引き分けです。
でも最後の一人のところで、一本取られました。
その最後の一人に、どうやって負けたか、僕は憶えていません。
ともかく、相手には天才がいたのです。
しかも、僕らはずっと引き分けで、全員くたくたになるまで戦った後です。
相手の大将はまだ1回もそれまで戦っていなかったのです。
全く動きが違いましたよ。
でも、僕は負けたときに、「天才には勝てない」と思いましてねぇ〜。
努力すれば必ず成果がある、とはなりません。
もっと強い奴に当たれば負けますよ。
僕らは本当に弱かったですからねぇ。

石原:はあ〜。

小菅:でも、もしあの時1回戦で負けていたら、
僕はもっと卑屈な人間になっていたかも知れません。
ですから、私の宝は「あの時」です。
昭和47年7月15日のあの試合に立てたとき、
そして2日間ちゃんと試合ができて、
最後に負けたことが私の最高の体験です。
それ以降、あれほど感激したことはないですね。

石原:本当に素晴らしい体験をお聞きしました。
深く高い感動を味わったかどうかで、
それぞれの人生の意味が決まりますね。

小菅:確かに私もアレを味わったから、
その後の努力も出来たんでしょうね。
あの時あれだけやって1回戦で負けていたら、
私の人生はどうなっていたか知れません。
何しろその前は、私達はずっと負けつづけで、
5年間5連敗していたのですから。

石原:最後に、あえてお聞きします。・・・・「人生」とは?

小菅:「人生とは、ただ自分の気持ちに正直に
生きて行くべきものだ」と思います。それだけです。
そういうものだと思います。

石原:今の一言、「あの7月15日」以来、
一貫したものであることをつくづく感じ入ります。
今日はご多忙の中、長時間、本当にありがとうございました。







2008年5月1日 午後6時より/場所 はなまる亭 2階



2008 summer
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