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第1回 衆議院議員/鈴木宗男 インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長 でもこの厳しさの中で育ちましたから、 肉体的にも 精神的にも私は鍛えられました。 石原:先生 大変お忙しいところ今日はお時間をとっていただき 本当にありがとうございます。 鈴木:ハイハイ。 石原:あいさつはそこそこにすぐ質問に入らせていただきます。 鈴木:ハイハイ。 石原:まずお生まれのことについてお聞かせください。 鈴木:昭和23年、1948年の1月31日です。 大誉地(オヨチ)といって帯広の北の方に足寄(アショロ)町という町がありますが、 その中心から北東向きに24kmほど離れたところです。 石原:聞きなれない地名ですがそれはけっこう山の中ですか? 鈴木:いえいえ 足寄から北見に向かう国道沿いですよ。 私がいたころは人口は500人位だったでしょうか。 今は100人くらいになってしまいましたが。 石原: あの辺りはエゾ鹿が本当に多くって、 車が鹿にぶつかって事故が後をたたないと聞いておりますが…。 鈴木:私はこの大誉地=「大きな誉れの土地」というところで生まれたということに、文字通り「大きな誉まれ」を感じ誇りを持っていますよ。 石原: ご本を読ませていただいたら、先生はお若い時11秒8で走られたと書いてありましたが。 鈴木: ええ 100mね。昔〜、高校時代〜。 まぁ正式競技の記録ではなく、ストップウォッチで計っただけですから、正確であるかどうかはね。 石原: それにしても12秒を切って走るとなれば相当だったと思いますが。 鈴木: えぇ 早かったですよ。 石原: 足寄高校では野球部だったそうですがクラブの中では一番早い? 鈴木: えぇ、それはもちろん、もちろん。 石原: 選挙の時などにお見受けするとスニーカーをお履きになって、 人々の中を走り回っておられるのがとても印象的でしたが、 やっぱり足には自信がおありだったのですね。 鈴木: えぇえぇ、足には自信があります。 石原: 大誉地の話にもどさせていただきますとその当時はどんな様子だったのでしょうか・・・。 鈴木: 昭和36年(1961年)までは電気も通ってなくてね。 大誉地はみんなランプ生活でしたね。 しかも冬の寒い日はマイナス35度までさがりましたし。 それはそれはとても自然環境としては厳しいところでしてね。 でもこの厳しさの中で育ちましたから、 肉体的にも精神的にも私は鍛えられました。 そのような環境の足寄に生まれ育ったことが土台となって、 私の今日があるなぁと強く思ってますよ。 石原: ご家族は何人でしたか? 鈴木: 両親に、兄弟3人の5人家族でした。 私は真ん中、次男坊です。 兄貴がいて妹がいて。 石原: ところで、先生はその頃どんな少年だったのでしょうか。 やがて大きくなるとこのように大変な政治家になられるわけですが。 鈴木: ちょうど中学1年生のときですが、「将来何になりたいか」という作文を書けということになりましてねぇ。 そこで「私は政治家になる」と書きました。 しかも「国会議員になる」と書いたのです。 石原: ハァ、中学1年生で政治家、しかも具体的に国会議員になりたいとは随分早熟ですね。 鈴木: そう中学一年でした。 当時国語の先生は藤原正義さんという方でね。 でも実は私はそのような作文を書いたことをすっかり忘れておったのですがね。 石原: ハァ 鈴木: 藤原先生は、私が国会議員に始めて当選した翌年のクラス会でねぇ。 「宗男。お前は中学の時からの夢を実現したねぇ。先生はいままであまりほめたことはなかったけれど、始めてお前を褒めてやる」と言ってねぇ、 みんなの前で褒めてもらったことを覚えていますよ。 先生が私の書いた作文を憶えていてくれて本当にうれしかったですねぇ。 石原: ハァハァ、それはそれは。 鈴木先生もうれしかったでしょうが、その藤原先生もうれしかったのでしょうね〜。 鈴木: そう、憶えていますよ。 そのクラス会は昭和59年の1月でしたけれど…。 石原: 目に情景がうかびますねぇ〜。 鈴木: そのように私はやっぱり本当にいい先生にめぐりあえてましてねぇ。 中学校時代の担任の矢田先生とか…。 石原: ハァハァ・・・。 鈴木: 私が社会科を好きになったのは、宮川浩と言う先生がおられたからですよ。 石原: ハァ 鈴木: あるいは飯山先生…。理科の先生ですが…。 その他数学の先生もそうですが、思い出しても本当にいい人に恵まれましたよ。 石原: ハァ 鈴木: これも「田舎であるが故に」ですね。 このようなすばらしい方々がたくさんいて、人に恵まれて育ったことが、私の後々の人間形成にすごく影響があったと思いますよ。 石原: ハァ 鈴木: 実は私は小さいときから政治が好きだったんですよ。 小学校の頃は生徒会長の選挙だとか、クラスの学級委員などに立候補しましてね。 石原: 勝ちましたか? 鈴木: えぇ勝ちましたよ。 大体その頃からみんなの前で演説をぶつのが好きでねぇ。 そういうのはしょっちゅうやってましたよ。 石原: 先生のご兄弟はみなさんそんな方たちでしたか? 鈴木: いやいや兄弟3人はそれぞれ全く性格は違いましたね。 妹は性格は堅実だったし…。 私は…。私はどちらかというと…やっぱり山師っ気がありましてねぇ…。 石原: ハッハッハッハッ。 鈴木: 兄貴はまた人が良かったですしねぇ。人の世話好きでねぇ…。 石原: ハァハァ。 鈴木: 私はその真ん中にいて、こういう性格ですよ。 石原: ハァハァー 生家『ムネオハウス』、この家屋で馬と共生していたという。 あのう‥‥「青」の‥‥一番いい馬……。 それを売ってくれました…。 石原: 大学は拓殖大学でしたよね。 鈴木: ええそうですが……。 ともかくその時私の家は貧乏してましたから、とても大学を受けれるような環境じゃなかったですねぇ…。 ですから私は足寄高校を卒業する時は就職が決まっていたんです。 経済的にゆるくなかったものですから〜。 雄別炭鉱というところに就職が決まっていたんですよ。 雄別炭鉱は私の家から数十キロほどのところにある阿寒にありましてね。三菱系列です。 (ここで秘書が入室して来て先生の耳元で〜〜〜〜〜〜〜。) あ、そうかそうか。こっちはちょっと時間がかかるんだよね。 あ〜 悪いですがちょっとこの部屋をあけて隣室で待ってていただけますか。来客です。大事な。 石原: わかりました。どうぞどうぞ。 …じゃ私その間席をはずさせていただきます。 (私は取り急ぎ退室。入れかわりに先生の選挙区の方と思われる男女3名がどどっという感じで入室してきた。) 鈴木: あっ、石原さん、このテープレコーダーもそっちに持ってって下さい。 これあなたのですから…。 (「やぁやぁ、さぁどうぞどうぞ」と3名に対応。私は隣室で待つこと十数分。その間、秘書のA氏と私は雑談) 石原: ……鈴木先生は相当の記憶力でしょう。 今お話をお伺いしていても、小学校や中学校の先生の名前がフルネームでぽんぽん飛び出してくるのですから…。 秘書A: えぇ、本当にすごいですね。 何年何月のいつ頃に誰とこんなことがあった、 あんなことがあったと非常に具体的にどんどん出てきますね。 「あの時のあれはどうなった」と、かなり細かいことも質問されて、いつも私は冷や汗をかいています。 石原: いやぁ、そうでしょうねぇ。 今少しお話させていただいただけで、これはすごい方だと思いましたよ…。 政治家には、顔と名前、どこで会ってどんな話をしたかということを憶えていることは大変重要なことですからねぇ。 秘書A: どなたから、どんなお話があってどのように対応したか等を、 鈴木の不在の時にもきちっとしておかないと…。 一つずつ答えを出して、必要なリアクションをすぐにしていかなければなりませんから、私たちもいつも緊張の連続ですよ。 石原: そうでしょうね。 まぁその記憶力や対応力はもちろん努力もあるのでしょうが、 持って生まれたものでしょうね。 そういう方はやっぱり一定の時間のうちには社会の上に押し上がっていくものでしょうからねぇ。 秘書A: えぇ…。 鈴木: さぁ、どうぞどうぞ。 …中断して申し訳ない…さぁ、どうぞどうぞ。 石原: やぁ 本当にお忙しいのがよくわかりました。 鈴木: まぁ、いつもこうですから。 ・・その雄別炭鉱ですよね。 石原: あ、先生、話の切りかえが早いし記憶力も抜群ですね。 もう先程の話の続きで…。 鈴木: そうですねぇ。記憶力は結構なものですよ。 ・・・さて、私はその雄別炭鉱に就職が決まっておりましたですからね。 でもね、3月10日に足寄高校の卒業式があったのですが、その後のことです。 私は「どうしても東京に出たい」と親父に無理を言いましてねぇ。 石原: ハァ。 鈴木: そしたら親父は・・・・・・・・・・・偉かったですねぇ。 石原: ハァ 鈴木: 親父は・・・・・・・現金はないんだけどねぇ。 ・・・・・・馬を一頭売って・・・・、 金を作ってくれました・・・・・・・・。 (この時、鈴木先生のいつものかん高い声は少しかすれ、低く絞り出すような声に。いつの間にか白いハンカチを取り出して目をぬぐっていた。) あのう・・・・「青」の・・・・・一番いい馬・・・・・。 それを売ってくれました・・・。 石原: ホ〜ォォ。 鈴木: それが3月の半ばのことですからね。 足寄高校の卒業式が終わった、その後のことですからね。 石原: 大学の試験は? 鈴木: 3月29日に受けたんです。 そんな時期にまだあったんですよ。もちろん二次試験です。 石原: へぇ〜。 鈴木: 3月の下旬といえばもうどんな大学も入試は終わっておりましたが、 調べてみるとたまたま拓殖大学が最後の最後にまだありました。 石原: ハァ 「そしたら親父は・・」。涙。 >>一そのとき中川先生に「たまには遊びに来いよ」なんて 言っていただきましてねぇ。
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