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第1回 ホットマン創業者/田中富太郎 インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長 特別何か考えたわけではないですよ。 “ブランド”を創るのは当然だと思っていましたから。 石原: 本日はご多用のところ本当にありがとうございます。 質問をさせていただきますにあたり、まずホットマンを立ち上げられた時の状況を教えていただきたいのですが。そもそもホットマンのスタートはいつ頃のことでしょうか。 田中: この社歴を書いたペーパーを見ていただくとおわかりいただけると思いますが、1971年にブランドの商標登録を行いました。 石原: 1972年には、六本木に初のショップをおつくりになられたようですが、その1年前に商標登録をなさっておられたのですね。 その「ホットマン」というネーミングは会長ご自身が考えられたのですか。 田中: その頃の幹部と一緒になってガヤガヤやってね。まず考えたのは、「清潔」ということでした。タオルのベースの色はやはりホワイトですよね。その白のイメージから“雪”とか“雪だるま”といった方向でいろいろネーミングをやってみたのです。でもその辺りの言葉はすでに登録がビッシリいっぱいで、ほとんど隙間がないんです。 石原: そんなイメージのネーミングは多いかもしれませんね。 田中: それじゃ、いっそのこと逆の発想にしてはということになりました。雪の冷たさとは反対に“あったかい”というね。 タオルの白というのは清潔ではあるけど、決して冷たいということではないんじゃないか…とね。 その発想から出てきたのが“あたたかい人”とか“あたたかい気持ち”などの言葉でした。結局そのまま「Hotman」ということにしちゃったんですよ。 石原: 1970年代はじめのその頃は洋服でもブランドらしいものはほとんどなかったと思うのですが…。 田中: 洋服のブランドの細かいことはわかりませんが、「オンワード」とか「レナウン」とかはありましたよね。それとほら、男の服で「VAN」とかね。 石原: それにしてもやっぱり “ブランド”といえるものは数えるほどしかなかった時代です。そんな時にタオル屋さんが「ブランド」を立ち上げようと考えられた原点は何だったのでしょうか? 田中: いや別に。 石原: はぁ。 田中: それまで、私が親父と一緒にやっていたのは寝具用の生地(夜具地)や婦人服地の織物でした。 かなり経ってからタオルを始めたのですが、特別何か考えたわけではないですよ。むしろ自分達の “ブランド”を創るのは当然だと思っていましたから。 石原: 先日私は、日本の二大タオル産地の大阪の泉州と今治に行って何人かの経営者の方とお会いしてきました。 皆さんおっしゃるのは「40年も前にホットマンはただ一人ブランド化していた。なんでそんなことをその頃に田中富太郎さんは考えたのか」と驚きと尊敬の念で語っておられましたが。 田中:いや、今言いましたように別にそんな気張ったことではなくて、当然というか、自分で作った製品・商品は自分が責任を持つということです。自分で作った商品には、その中にいろんな想いがぶち込まれているものですよ。ですから、名前がなければおかしいわけで、私にとってはごく自然に…ということですよ。 石原: 先日、御社の歴史を知るのにお父様がお書きになった『回想九十年』を読ませていただきました。ホットマンの前身は「梅花紡織」という会社だったのですね。 田中: ええ。戦前は梅花織物といいましたが、戦後私が再興した時に紡織(ボウショク)にしました。 梅花紡織では最初は小巾の機械でやりました。 石原: 小巾といいますと…。 田中: 巾が40cmくらいの織物です。 私が開発した小巾の織物製品にはそれぞれ名前をつけました。 最初は自分の創作ゆかたを作りまして「多摩川」と名づけましてね。1947年に織物を再興して始めてから2年後のことですよ。 >> 「どうせ2〜3年ムダ飯を食うんなら下積みの方が勉強になる。幹部候補生にはならない」と腹を決めて行きました。
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