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第8回 ホットマン創業者/田中富太郎 インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長 私は誰かの裏をかくというようなことは好きではありません。 田中: それまでは我が社のタオルは自分で製造するだけで、問屋や商社の販売ルートに乗ってやっていました。 そこでまず手元にあった製品の在庫品や、返品されていたり、企画外れになっていたタオルを集めて、自分達で地方の寝具屋さんや呉服屋さんに売りに廻ったのです。 石原: はあ。 田中: 考え抜いた揚句、それは始めから独特の売り方です。 先方にはタオルのサンプルだけを置いてもらい、私の方でいつでも在庫していますから、と言って取り引きをお願いして廻りました。 「ギフト」用タオルにはこれがピッタリだったのですね。随分評判が良くてね。 石原: 問屋をはずして小売店と直結卸方式ですね。 田中: そう。直結です。 私は、誰かの裏をかくというようなことは好きではありません。 ですから従来から取引のあった問屋さんを通さないでやる限りはすべて自分でやろうと思って、本当にそうやったのです。 問屋を通してそれまで取引があった小売屋は絶対に訪問しない。全く関係のなかった小売屋さんを新規開拓していったのです。 石原: すべて新規開拓ですか。 田中: 従来からあった問屋や商社の取引をウチの理由で一方的にすぐ切るわけにはいきませんからねぇ…。 そうしながら従来の取引ルートは時間をかけて逐次整理していったのです。 石原: その製品には「Hotman」というブランドはまだ付けられてはいなかったのですか? 田中: ええ。その時は先方の指示によるネームを使って卸していました。 もちろんこのシステムに対して、「問屋を排除するのか」と随分圧力や嫌がらせを受けました。 でも主要な問屋さんには私の会社のことで一切迷惑をかけるようなことはしませんでしたし、じっくり時間もかけました。 石原: 当時は直販なんて誰もやっていないよ、と言われるのは当然だったでしょうが…。 田中: タオルはそれ以前に何社かが問屋を通さず直販をやったのですがみんな失敗しました。 彼らは問屋を通じて取り引きしていたその小売店に直接取り引きをしようとしたからです。それでは問屋も死活問題ですから、当然抵抗を受けますよね。 石原: 御社がその圧力をはねのけていけたのはどの辺だったのでしょうか。 田中: 反揆される材料がないように従来からの問屋との取り引きは完全にそのまま守りました。 バッティングは全くありません。今まで一切関係のなかった小売屋さんに我が社独特の販売方法やサービスを行いましたから。 小売屋さんには在庫負担がないようにサンプルだけを置いてもらうようにしましたが、 もちろんこれを理解してくれるところと全然ダメなところとありました。 理解してくれるところは「これは便利だ」といって他の仲間の小売屋さんを紹介してくれるのですよね。 もちろん紹介してくれる仲間は近くではありませんよ。例えば小田原の人が茨城県の店を紹介してくれたりですね。 石原: やっぱりその訪問先は寝具屋さんのような業種の方ですね。 田中: そうですね。その他に呉服屋さんにもね。 石原: 問屋からの圧力は御社だけでなく、その小売屋さんにもあったのでは…。 田中: 多少そういうことはあったかもしれません。でもその後間もなく六本木店をオープンしましたでしょう。 そしてカラータオルの大反響などがありましたから。全国のいろんな小売店やデパートから取り引きのお声がけをいただきまして、 お陰様で売込み競争に巻き込まれなかったと思います。 でも実情は1970年の大ピンチを必死で切り抜けたばかりですから… 石原: そういう状況の中であの六本木の角地に「Hotman」の直営店舗を構えられるわけですね。 田中: それは「直卸システム」が軌道に乗りはじめた頃です。新しい市場作りを目指すためのパイロットショップを持ちたいと私も考えるようになってきました。 それにしても“直卸”システムには、専務である弟が体当たり的に取り組みましてねぇ。短期間で軌道に乗せてくれましたよ。 冬の寒い夜、東北で車の中で夜明かししたり、いろいろ苦労もしましたが……。 そんな中で販売が何とか軌道に乗ってきましたから、次は自社オリジナル商品作りをしようと1971年に「Hotman」の商標登録をしたのです。 石原: いよいよ商標登録ですね。 田中: 会社は多角化の失敗で大ピンチを招きました。でも幸い撤退を決めてからの処理手際は極めて早く、我ながら見事だったと思っております。 そのため、社内の志気は高くて、空気も明るかったと記憶しています。 そんなことでまぁ少し調子が出てくると自営のパイロットショップがほしいという声が社員からも出てきました。 でも実情は1970年の大ピンチを必死で切り抜けたばかりですから財務に余裕はありません。「それはダメだ」と反射的に口から出かかったのですが、私は必死で自分の口を押さえました。 石原: はぁ…。 田中: でもね。考えてみればもともと我が社の生き残りを託したのがタオルの製造販売です。 無理は承知で始めた再出発です。それに私にはいつかは自営のショップを作ろうという考えがある。 じゃあ、遅いよりも早い方が良い、と決断したのです。無理を承知の上でね。 石原: そのような中で…。 田中: 幸い伊勢丹新宿店にも「ホットマン・ダンディストライプ」として特設売り場で出店し大成功しました。ツキ始めるとツキはツキを呼ぶんですね。 その頃、赤坂、青山、六本木、原宿といった新しい繁華街ができつつある時で、 私はパイロットショップの場所をその辺で探しておりました。なかなか適当な場所が見つからなかったんですが、 私共が旧知の小川建設が六本木の交差点付近に新しいビルを建築中だというのです。 オーナーは望月さんという地元六本木の方で、いろんな方から申込があって困っていたところでした。 いっそ無関係のホットマンさんに貸しましょうということで話はすぐ決まりました。それが今でもある「Hotman六本木店」です。1972年ですから今から40年ほど前のことですが…。 誰も見たことのないタオルを1年以内に必ず完成する。 それまでは我慢していろ…とね。 田中: 実はねぇ、六本木の店を出すには出したんですがねぇ。その時はウチのオリジナル商品はまだないんですよ。 ともかく何をこれから作っていくかを決めるためのパイロットショップですからね。小売業にも自信が無かったけれど「ともかくパイロットショップを」というくらいの感じでした。 石原: はあ。 田中: ただ最初からウチは“高級路線”でいこうとは決めておりました。 それにしても自社製品がほとんど無いところでの店のオープンです。 結局世界中のタオルメーカーから仕入れて、棚に並べてのスタートでした。 石原: ほぉ…。 田中: でもね、オープンの時にはすでに私には新しいタオルの構想はあったんですよ。 まだ試作品すら出来ていませんでしたが構想はきちっと持ってました。『24色の全く新しいカラータオル』というものです。 絶対どこにもない、誰も見たことのないタオルを1年以内に必ず完成する。それまでは我慢していろ…とね。 石原: はあ。 田中: オープンした翌年の5月頃だと思います。織り上げたタオルにシャーリング加工をして、 24色に染めたものを発売したんです。そうしましたらねぇ、これがもの凄い反響を呼びましてねぇ…。 石原: でもそれまでは自社製品は一種類しかないとは、凄まじいスタートでしたね。 田中: 六本木店の当初の目的は、世界中の有力メーカーと自社オリジナルを並べて市場動向を知ろうということでした。 「メーカーの直営ブランドショップ」なんてその頃は私共もまだとても考えられませんでしたよ。 石原: パイロットショップを作ろうというのはそもそもどの辺りから考えたのですか。 田中: タオルを作るところに始まって、お客様の手元に届くまでのことをすべて自分でやらなければいけない…ということを私は最初から考えていました。 作る側と買う人の間に一人でも他人が入っていると本当のことはつかめませんよね。親父達が絹織物をやっていた時から、私はその流通のことを見ていて、 “少しでもお客様に近く”という考えをずっと持っていたのです。 石原: はあ。 田中: その頃は繊維を始め多くの日用品には中間業者の問屋がいて、そこから小売業に渡り、消費者が買うということが当り前でした。 でも私は、メーカーは自ら直接小売業をやらなければどうしようもないと思っていました。 中間マージンが惜しいということではなく、何を消費者が必要としているのかを感覚として知っていなければ、物など作れないと考え続けていたからです。 いくら良いものをどれだけ真面目に作っても、結局あいだに業者がいれば途中で利用されるだけなんですよ。 織物屋が誠意を持ってやればやるほど中間のところで取られるだけなのです。 石原: 大事な顧客情報は屈折してしか入ってきませんしね。 今治や泉州の社長はみなさん、 田中富太郎さんが40年も前に何故ショップをつくったのか、それを聞きたいと言っておられましたよ。 田中: その今治や泉州のメーカーの方々は何度もウチを見に来られました。 本当はそちらが大産地なので私の方が出向くべきだと思っていたら、わざわざ東京とはいってもこんな奥多摩の青梅まで見学に来られましてね。 石原: そしてつぶさに見せていただいたと。 今治の吉井タオル、池内タオル、泉州のツバメタオル、永橋染織の社長と先日お目にかかった折に、 「今度ホットマンの田中富太郎会長にインタヴューをするんですよ」と言ったら、 皆さんが敬意をこめて「よろしくお伝え下さい」と言っておられました。私も会長のお名前を勝手に金看板にさせていただいたのですが(笑) 田中: 私も向こうの人達に今でも不義理はしておりませんですよ。 >>この加工法を使ってカラータオルを作ればきっといける。
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