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第4回 ホットマン創業者/田中富太郎 インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長 「日本をどうするのか」という気持ちです。 それは強かったですよ。 石原: ところでお父様の本に書いてありましたが、長男が帰還してきたが、その後しばらくは無口で考え込んでいた…。 田中: いや、そんなことはない。 石原: そんなことはない? 田中: いや、帰って来たその晩もね。家中で眠らずに歓迎してくれましたよ。 石原: そのまま戻って来てすぐ普通の生活に入れましたか。戦地と自分の家は別世界のことで違和感はなかったですか。 田中: いや、それはないですよ。自分の家ですから。 石原: ご実家はもともと織物業をなさっておられたんですか。 田中: ええ、どうやら江戸時代からのようですがその辺はハッキリしません。 私の父文吉は、兄弟で実家を継承して織物業をやっておりました。 ただ戦争の真っ最中の1943年には国策によって軍需工場に転用のため織物は休業になりました。 石原: なるほど。 田中: 戦後、親父は織物業を早く再開したがっていました。でも私は他の仕事をしたいという夢を持ってました。それとやはり敗戦による心の空白がありましたしね。 石原: やはりねぇ…。 田中: その頃全国各地で盛んになってきた「青年団」活動に引っ張り出されましてね。 石原: 「青年団」運動というのは反戦的な、左翼的なものだったのでしょうか。 田中: いや、「青年団」運動は右も左もないものです。でもね、入って活動していましたら、もとは志願兵だったなどという若い連中が私を慕って集まってきましてねぇ。 彼らはなかなか優秀でしたが、コチコチの右翼でした。だから議論をしていると私のことを「左だ」というんですよね。 ところがその連中が一年程経った頃、いつの間にか私からそっと離れたんですよ。私に寄って来なくなったんです。 石原: はあ…。 田中: その連中が実は共産党に入ってたんですよ。 その頃共産党は暴力革命を掲げて全国各地でかなり激しいことをやっていて、 山梨と東京の県境の山中でも大事件がありましてね…。 そうしたらなんと指導者がその連中でしたよ。後で判ったんですが、その連中は私を何とか共産党に引き込もうとしていたらしいですよ…。 石原: その頃ご自身はどんなことを考えられていましたか。 田中: 「日本をどうするのか」という気持ちです。それは私だけでなく多くの若い者も持っていた強い気持ちです。 私は戦地から帰ってまず感じたのは、「狭苦しい」ということでした。 ともかく息苦しいとね…。 石原: 田中家歴代共通の考え方でもありますね。自分のことよりも他人のことや全体のことをまず考えるという…。 田中: そうです。田中の系統の人たちも母方の人達もみんなそうでしてね。それは私も立派な人だと思っています。 事業に関しても、ただ単に金儲けということではなくてね。そういう家風の中に育ちましたから、 私も商売を始めてからも儲けるということに対しては何かこう違和感がありましてね。 石原: お父様も一貫してそういうピュアな考え方、生き方をなさってますよね。 田中: 親父の兄は青梅市の織物業組合の理事長をやりながら、自分の家の商売は地元織物業界とは関係のない別の都市でやっていたんですよ。 売り先やルートも隣の八王子市です。だけども地元の業界の振興には犠牲になってもやっていました。 石原: そのように日本の地方には、自分を二の次にして大きな視野で行動する人がいたようですね…。 田中: そうです。政治家でもね。自分の財産を投げうって、みんなのために尽くすという人達がいましたよ。 石原: 私は新潟市近郊の小作人が1500人くらいいた豪農の家を訪れたことがあります。 その豪農は1947年から始まった「農地解放」の時、あっさりただ同然の価格で土地を手放すサインをします。 田中: まあ、全体を見て「これはやむを得ない」と考えてですよね。 石原: それにしても日本には江戸時代の「武士道」から来る「潔さ」を持つ日本人がたくさんいたと思うんですが…。 田中: たしかに日本は自然なんかもいいところがたくさんありますが…。 でも私は戦地から帰ってまず感じたのは、「狭苦しい」ということでした。ともかく息苦しいとね…。 石原: あの広い中国から狭い日本ですからねぇ…。 田中: まあ、なんというか圧迫されてねぇ。しばらくはねぇ…。 石原: はあ。 田中: これは私がもともと持っている反発心なのかもしれないけれど、空間の狭さの他に人間のうるささです。 何だかんだと言うねぇ…。もっと大きく考えればいいものを、全く小さなことをアレコレねぇ。 田舎だけではなく都会でもですよ。これが一番鼻につきましたよ。 この二つの狭っ苦しさにはずぅ〜と抵抗を感じました。 石原: そうですか。 田中: 私より2歳くらい若い地元の寺の坊主をつかまえてはねぇ。彼とは仲が良かったし、ものの分かる僧侶でしたがね。 「日本を建て直すのにともかく仏教を建て直せ」「お前の仕事はそれなんだから」と随分やり合いました。 「ともかく自立、個の確立が必要なんだよ。それがますます今の日本ではダメになって来ているんじゃないか」、とね。 >> あんな細いチマチマした仕事でなくて、もっと大きな仕事をやりたいと思っていたんですよ。
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