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第5回 ホットマン創業者/田中富太郎
   インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長


あんな細かいチマチマした仕事でなくて、
もっと大きなことをやりたいと思っていたんですよ


石原: ところで帰国後「長男が1947年の1月31日夜半、最初の織物を厳寒の中で織り上げた」とお父様の書で知りましたが、すっと自然に織物を始められたのですか。

田中: いやいや、親父はね、私が帰って来た後すぐにも織物をやれと言ったんですよ。でも私はちっともヤル気がないんですよ。 あんな細かいチマチマした仕事でなくて、もっと大きいことをやりたいと思っていたんですよ。 特に絹織物は細かい仕事ですからね。何も経験はないんだけど、気持ちだけは“もっと大きいことを”…とね。

石原: はあ。

田中: まあ私も帰還してから1年ちょっと仕事しないでいたんですがね。
親父はもともと兄貴と一緒に織物会社をやっていたんですが、兄貴が田中家の本家です。 そこでウチの畑でできる農作物も兄貴の家の方でほとんど持ってっちゃうんですよ。
だから私の家の方で食べるものは中国の現地よりもひどかったんですよ。

石原: まあ日本中が飢餓状態でしたからねぇ(笑)

田中: 本当にねぇ、ぬかの入ったメシも食べましたし。
もっともウチの家族はみんなそんなことをあまり苦にしませんでした。一つは親の教育ですね。 お袋も豊かに育った方ですが、そういったことに耐えることは全く苦にしてなくて、広い心を持っていましたねぇ。

石原: はぁ。

田中: そういう状況の中で私は長男でしたから当然家を背負っていかねばならないという自覚はありました。しかもそのうちに食うのに困ってきましたでしょう。

石原: はあ。

田中: だから「もうしようがない」と観念したんですよ。

石原: 観念するまでにやや1年…。

田中: いや、1年以上…。

石原: 軍隊で中尉までなられると100人以上の部下を動かしてこられたわけですから、 せせっこましいことをやっていくことに納得するのに1年以上の時間がかかったということでしょうか。

田中: いやぁ、そうじゃなくてね。やるからには何か大きなことをやりたいという心だけはあるのですが、それを具体化することができないわけですよ。
仲間の勧めで2つばかりの仕事に出資したのですが、どっちの仕事もうまく行かないんですよ。
多少あった貯金と姉から借りて来た金も消えてしまいましたしねぇ。

石原: 旧日本軍では給料は出たんですか。

田中: ある程度は出ました。でも日本のお金の価値がどんどん下がってきましてね。そのうちに貰っても腹が立つ程度になってしまいましたよ。


親父の残した資産には手をつけない。
それと親父の顔に泥は塗らない。
この2つは約束するあとは私が自分で全部責任を持つということでね。


石原: お金もなくなったし、食べてもいけなくなって、観念していよいよ織物をやろうと…。

田中: まぁそう決心はしたんですがね。
やろうとしてもウチには織機も何もなかったんですよ。それで親父が仲間からともかく織機を4台借りてきましてね。 でも本体だけです。必要な付帯の機械も部品も一切ないんですよ。原料もなしでした。
そんな状態でしたから、私の最初の仕事は親父の知り合いの同業者の下請けでした。

石原: いろいろありましたが、踏ん切りをつけて?

田中: まあねぇ、まぁしようがない…、と。
でもやると決めたらね。自分で納得のいくところまでやるつもりになりました。
そして「もう親父は手を出さないでくれ。オレが全部責任を持ってやる」と決めて始めたのです。

石原: はあ。

田中: 親父はずっと自分がやってきた絹(シルク)織物の再開を考えていましたが、私はこれからは綿(コットン)の織物だと主張しましてね。

石原: それでも社長はお父様で…。

田中: ええ、親父がいる間は名前だけは親父が社長で…と。
ただし、親父の残した資産には手をつけない。それと親父の顔に泥は塗らない。 この2つは約束する。あとは私が自分で全部責任を持つということでね。

石原: はぁ…。

田中: まあ、そうは言っても何も知らないですから、親父に「そんなことをやってちゃダメだ」なんて言われて手伝ってもらったりしました。 でも、機械のオペレーションも修理もすべて独学でやりました。 人にも多少は教わりましたが、工業高校の教科書を借りて来て勉強したりしましてね。

石原: もともと理工系ですか?

田中: 出身は商業系の学校です。

石原: でも計算だとか機械は嫌いではなかった?

田中: いや、全然…。機械なんかゼンゼン…。

石原: ハッハッハッ…。だけど失礼ですが砲兵隊だったんですよね。だから多少機械は…。

田中: いや、ほんとにゼンゼン…です。それに砲兵っていっても別に機械がどうということもなかったですよ。

石原: それでもともかく自分でやる。独立独歩だと…。でもそのご性格…。軍隊におられた時も「お前…ちょっと」と言われなかったですか。

田中: 軍隊でもそれは何度かありましたよ。

石原: それは自然に出ちゃいますものね。

田中: 本当によく怒られなかったと思うんですがねぇ。あるとき射撃の演習で私が指揮官をやったんですよ。 連隊長が後ろで監督していたんですがね。私は仲間と共謀して、事前に現地を測量して射撃の諸元を用意しておいてね。 そして山をかけたルール違反の射撃をやったのですよ。カッコよく、さっそうとね。若気の至りですがね。

石原: はあ…。

田中: そしたら連隊長が後ろで怒っているのです。「自分で思う随分勝手な射撃をしている」と言ってね。

石原: はあ。

田中: まぁその場では連隊長はダメだ何だと言ってたんですがね。 その後私がいないところで講評したときは「ともかくあの指揮は沈着鈍重だった」と言っていたそうです。

石原: ハッハッハッ…。

田中: そして後、私は何も怒られなかったですよ。

石原: いずれにしても一度決心したら自分でやるんだという…。

田中: 自分のことは自分で責任持ってやる。人にはそんなに頼らない、という性格はありますよね。 私は小さい時から納得いかなかったらテコでも動かないところがありました。納得しないことはやりたくないというね。

石原: 弟さんも同じ性格ですか。

田中: 弟は私とかなり性格は違いますね。まず私は憶えることが苦手です。 考えることは好きですから数学は良いんですが歴史はダメですね。親父は記憶力は非常に良かったし、弟も記憶力は良いんですが。

石原: だから逆に論理的なものは非常に良いんですよね…。

田中: 地理なら憶えるんですがともかく歴史はダメですね。


>>創業して7〜8年で青梅では実質トップの規模になりました。



 
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