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第2回 ホットマン創業者/田中富太郎 インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長 「どうせ2〜3年ムダ飯を食うんなら下積みの方が勉強になる。 幹部候補生にはならない」と腹を決めて行きました。 石原: お父様の回想録で知りましたが会長は1942年、日本陸軍に兵隊として召集されますね。 田中: そうです。4年間ね。 石原: どの辺に行かされたのでしょうか。 田中: 中国の北部、いわゆる「北支」です。北京付近が一番長かったですよ。 私のいた中隊が所属する連隊は北京から南に200キロぐらいのところ、徐州のそばのエン州に駐留しておりました。 1つの連隊は3000人くらいの規模ですが、その中で私の中隊だけが北京の郊外に駐留しておりましてね。 そこは中国大陸の日本軍の佐官や尉官などの将校が来て指揮の訓練を受けるところなのですよ。 各地から指揮官達が集まってきて、我々のいる中隊を使って指揮します。 そして演習をしながら指揮の方法を学ぶのです。ですから中隊にいる私たちはいつも三八式野砲を使って実弾射撃をやらされました。 お陰で私は射撃が得意でしたよ。 石原: 砲兵の部隊に配属されたというのは何か理由があったのですか。理科系出身とか…。 田中:いえ、私は長男だったので消耗比率の低いところに配属されたということです。 別に私の方で動いたわけではなく、軍の方でそんな配慮をしていたみたいです。 石原: 長男だとか、一人っ子だとか残された家のことを考えてくれることがあったのですね…。でも逆に言えば次男以下は消耗品ですね…。 田中: そう。そして一番の消耗は“歩兵”なんです。 石原: 入隊してすぐそのまま大陸の方へ…。 田中: 4年間ずっと大陸です。 石原: ご家族との手紙のやりとりは結構できたんですか。 田中: ええ、まぁ…。ただ私はねぇ…。筆無精というかね、私も若いし独身ですしねぇ。それに苦労知らずでしたからね。もう手紙なんかロクに出さなかったですよ。 石原: アッハッハ…。 田中: その頃母は身体をこわしておりましてね…。ですから徴兵されて出征する時は、母も私も「もう二度と会えないだろう」と覚悟しておりました。 たとえ私が無事に帰れたとしても、病弱の母はそれまでは生きていないだろうと思ったし、私自身も帰れる可能性は高くないと思っておりました。 ですからね。家族はそのようなことを嫌がると思いましたが、自分の爪を切って机の判りにくいところに置いて家を出て来ましたよ。 石原: 覚悟を決めた上、誰にも言わずにねぇ……。 我々は現在、平和の中にいて死を覚悟して生きていくという肚の据わった生き方がどうもできておりませんですが…。 ところで、実際に体験なさった “軍隊”とはどういうものだったですか。 田中: まぁ…ええ……。矛盾……要するに非常にバカバカしいところがありました………。 ただ私は仲間と比べると発育が遅れているというか、精神的に未成熟なのか。周りには「俺はこうだ」と立派なことを言う人が結構いましてね。 そんな個性の強い連中には少しコンプレックスを感じたりしたこともありますよ。 石原: はあ。 田中: 私は身長はありましたが、痩せっぽちでした。それでもその前年の8月にあった徴兵検査では“甲種”の次の“第一乙種”です。 その年からは、「第一乙種」も甲種並みとみなされて徴兵されました。 石原: ところで軍隊とは…。 田中: ええ…そうそう。その軍隊のことですがね。そうですねぇ〜…まぁ見てましてね、軍隊の矛盾というのは、これはしょうがないと思っていました。 石原: はぁ…。 田中: 軍隊に入ったら資格のある者はみんな幹部候補生になりたがりますよね。でも、私は「どうせ2〜3年ムダ飯を食うんなら下積みの方が勉強になる、 幹部候補生にはならない」と腹を決めて行きました。 「自分です」と私が手を挙げるんですよ。 そうすると、一番最初にその私がビンタをやられるんですがね。 田中: それで入ってみてねぇ…、初めからバカバカしいことに、すぐビンタですよね。何かと理由をつけてはね。 「これは誰がやったのか」とか、ともかく些細なことを見つけてはビンタです。 石原: はぁ…。 田中: 初めは何が何だかわからないですからねぇ。みんな黙ってます。もちろんやった奴も黙ってます。それを入隊早々毎晩やられるわけですよ。 2〜3回やられた後は様子がわかってきましたから、「誰だ」と追求されたらすぐに「自分です」と私が手を挙げるんですよ。そうすると、一番最初にその私がビンタをやられるんですがね。 石原: はぁ〜。 田中: 名乗りをあげた人間がまずビンタされて、結局全員がビンタをやられるまでは寝れません。ですからどうせ全員がビンタをやられるなら早く名乗り出た方が良いと思いましてねぇ。 石原: ハッハッハッハ…。軍隊に入ってしまうと矛盾を感じながらもしょうがないということになるものですか。 田中: もうね。わたしはそんな矛盾は当然あるものだと思って行きましたから。 石原: 他人のことでも「自分です」と手をあげる…。 田中: 分隊長の方もわかるんですよ。こいつは誰かの身代わりに名乗りを上げたなということがね。 石原: はぁ。 田中: だから、私には手心を加えてくれるんですよ。それに結果として隊員全体も早く解放されて寝れますしね。私も仲間から信頼を得ることができますし…。 石原: でも連日のように分隊長が来てみんなにビンタを喰らわすのは一体何のためだったんでしょうね〜。 田中: ビンタをとるのは、まぁその分隊付きの下士官や古参兵です。 そして新兵として入ってくるのはみんな生意気盛りの若僧です。それをまとめるには、ある程度理屈抜きのやり方はやむをえないのではないですか。 石原: 羊を追い込むように、まず最初にそれをやって…。 田中: 私の最初の中隊長は厳罰で特に有名な人でした。私らが初年兵として入ったのは東京世田谷にあった原隊です。 送ってきた親とかには「当分ここから動かないので面会に来るな」と言い渡しました。 私達は2月1日に入隊したのですが、なんと5日には大陸に向けて出征しました。 そのとき我々の配属された中隊は厳しいことで知られていて「あぁ可哀想に、あの六中隊か」と言われました。 石原: ところで軍隊とはどんなものなのでしょうか。面白いとか、おっかないとか…。 田中: そういう雰囲気に負けてノイローゼになる者もいましたが何といっても若い者が集まっているので、それはそれなりの社会です。そんなに陰惨なものじゃないですよ。 石原: 映画で観れば「突っ込め!」だとかありますが。 田中: 実際の戦闘はそれ程なかったですからね。 でもやっぱり私が幸運だったのは、南方に行かされなかったことですね。 石原: そうですね。南アジア、レイテ、スマトラなどに送られた人達は全員玉砕で悲惨な戦いをさせられましたからねぇ〜。 田中: 将校になるための試験を受けるものには、消灯後も将校室を使わせる等の便宜を図ってくれたんですよ。 もともと私は幹部候補生になる気はなかったので勉強はしませんでした。でも資格があるのに受験を拒否できるような環境ではないですから受けました。 それで試験場ではまさか白紙答案を出すわけにいかないので取りあえず書いたら合格してしまいましてね。 それからは少し真面目に勉強して将校になりました。最終的に中尉までなりました。 >> そしたら通じましてね。自分のサインをして受領書を置いて行きましたよ。
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