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第6回 ホットマン創業者/田中富太郎
   インタビュアー/石原嘉孝/オクノ社長

創業して7〜8年で青梅では実質トップの規模になりました。

石原: ところで綿織物を始められたその後は順調に業績を上げていかれたのですか。

田中: 親父が知り合いから借りて来て私が始めたのは小巾の織物でした。
でも、だんだん物足りなくなってきましてね。そのうちに広巾の織機を買って婦人服地も始めたんです。 これも全くゼロからのスタートでしたが、独自商品の開発などが当たって売り上げ倍増が何年も続きましてねぇ。
その頃青梅では夜具地を作っていたみなさんが儲かってホクホクしておりました。でもね、私は彼らよりははるかに儲けました。

石原: 小巾も広巾も…。

田中: いろいろ失敗もありましたが、創業して7〜8年で青梅では実質トップの規模になりました。1955年頃のことですが。

石原: ほぉ〜。日本はその頃内需拡大とともに織物の輸出も進みましたしね。

田中: 輸出は浜松や兵庫の西脇なんかで、青梅や所沢、八王子等の関東では輸出はほとんどなかったと思います。親父のやっていた頃、戦前は青梅からも輸出はあったようですが。

石原: 織物はイギリスにはじまりますが、日本も早い時期から世界へ出ていきますものね。

田中: ええ、明治時代から日本の織物は世界中へ輸出されますね。繊維が日本の外貨獲得に一番貢献したわけですから。 戦後も関西や北陸の産地を中心にアメリカをはじめ、世界各地に輸出がスゴかったですよね。 1970年の始めの田中角栄首相の頃に日米繊維交渉があって「輸出自主規制」をせざるを得なくなりました。 沖縄返還の時には「繊維を売って沖縄を買った」と言われたんですから…。沖縄返還の一つの材料だったんですよね。

石原: その繊維の輸出品がどちらかといえば関東より関西の方が中心であったというのは何故でしょうか。

田中: 一つは関東には大きな繊維工場が少なかったことでしょう。特に太平洋戦争の時は、関東は重化学工業地域として繊維などの軽工業は閉鎖させられましたからね。

石原: 関東の方は古くから養蚕が盛んで絹織物産地が多いと思いますが、綿(コットン)はどうだったんでしょうか。

田中: まあ、もともと日本の綿花の生産はわずかでしたしね。江戸の初期から日本各地で綿花の栽培が始まったのでしょうが、いずれにしてもたかが知れた量ですよね。

石原: だから江戸時代に鎖国していた日本では、唯一開港していた長崎を通じて、ずいぶんたくさんの綿を輸入していますものね。

田中: そうです。綿布を中心に綿糸もかなり輸入していますね。


ハタから見ると変わったことをやっていると思ったかもしれませんが、
私は当たり前のことをやっているんだ…。とね。


石原: 1950年に朝鮮戦争があって日本には「戦争特需」が来ますよね。「糸へん景気」「ガチャ万景気」とか言われるものです。 ところがそのピークを過ぎると一挙に景気は落ち込んだのでしょうか。

田中: その特需の他に、「戦時統制」という物資や物価を国が管理するシステムがありましたが、 それが解除されて物が豊富になると「闇」時代の取引の甘みが商売する側にはなくなってきましたし。

石原: ところで1955年頃、御社は売上げも利益も絶好調でした。それがダメになってきたのは何故だったのでしょうか。

田中: いいえ、それは違います。1955年には景気はもう降り坂でした。 繊維業界はその頃から斜陽化が始まり、結局今に至るも降り坂です。私の会社も絶好期はすでに終わっていました。 その頃から“物不足の戦後期”は終わり、産業構造の近代化、大変革が始まったのです。

石原: 私の親父も大阪で紡績や毛織物でずいぶん儲けたのですが、たしかにその頃おかしくなっていったようでした。子供ながらにそれは感じておりました。

田中: 私は小巾の将来はないと思って見切りをつけて服地中心にすることにしました。そして57年にはウチにあった小巾織機120台を一挙に全部処分したんです。 服地用の広巾織機80台だけを残してね。

石原: 一挙にねぇ…。

田中: 私の方がそのように小巾機械を減らした頃、青梅では大手がその機械をまだ増設していたんですよ。
全体はそんな流れでしたから、銀行に行って小巾機械を廃棄すると言ったら、融資を引き上げると脅かされました。
婦人服地なんていっても青梅は産地じゃない、もちろん販売ルートもないですからね。そんな不安定な仕事に金は出せないと言われました。

石原: 全面的に小巾をやめて婦人服地に切り換えて、早々に軌道に乗りましたか。

田中: いえまぁ、婦人服地を主体としてそれなりにやっていましたが、要するに小巾という余計なものを切り捨てたというだけのことでしたよ。

石原: その頃の従業員数というのはどれくらいだったんですか。

田中: 100人くらいだったですかね。

石原: そんな規模でしたら、こちらをやめてこの方向でいくとかは、社長であるお父様によくよくご相談しながら決めていかれたのでしょうか。

田中: 「小巾織物をやめよう」とそれまでも2度考えて相談したのですが、その都度親父に反対されました。 でも今度はとことん全体を考え抜いていましたので親父も「考えた通りやりなさい」と快諾してくれました。

石原: その判断はどんな考え方でなさったのでしょうか。

田中: まあねぇ。当たり前のことをやっているんだ、という感じでした。ハタから見ると変ったことをやっていると思ったかもしれませんが、私は当たり前のことをやっているんだ…とね。


私自身は「タオルなんて大した織物じゃない」と思っていたんですよ

石原: ところでタオルはお父様の勧めで始めたのですよね。

田中: いえ、それはこういうことです。戦後、協同組合法が変わって新しい織物組合になり、親父がその責任者に引っ張り出されるのです。 1946年には公選第1回目の調布村村長の選挙があり、親父が初代村長に選ばれました。 でもようやくその役目が終わったと思ったらすぐに組合の理事長というわけです。
親父はともかく引き受けた限りは本当によくやっておりました。 綿織物の全国組織である綿工連の会合にも度々出かけたりして、生産地のためにトコトン尽力しておりましたよ。

石原: はぁ…。

田中: そのように親父は全国的な仕事をしておりましたから、世の中の情勢の変化も良く知っていましてね。 青梅が得意としていた「夜具地」という織物はもう将来性がないことはよく分かるわけですよ。
ウチでも夜具地をやっておりましたが、親父の話を聞いていてこのままでは産地の将来は無いと私もずっと思っていました。 そして何か方向を変えなければならないと考えていたんです。

石原: はぁ。

田中: たまたま大阪でその綿工連の理事会があった時に、通産省の担当課長が来ていて、「タオルケットが不足しているので、 全国のタオル織機の登録数を2000台増やします。」という話をしたんですね。

石原: はあ。

田中: 親父は瞬間的に「青梅産地の方向転換はこれだ」と思い、帰って来て組合員に話したところ「全面的に賛成」となりました。
そこで親父は独特の勝負師的見方で「1000台以上」と申し込みをします。平素はきわめてオープンな組合運営をする親父がこの件だけは独断です。 「もし大量に割り当てが取れたらどうするの」と私が言うと、「いずれ各産地が必ず割り込んでくるから」と独特の腹芸です。
その後予想通りいろいろな圧力を受けるのですが親父は独りで奮闘しました。結局青梅で取れたのはやっと110台、あとはすべて従来からのタオル産地に割り当てられました。

石原: はあ。

田中: ところがそれからなんです。組合員の人たちと割当会議を開くと、希望者が激減してしまうんです。 タオルをやりたいと言ってた人も「今は夜具地がまだ売れているのに、わざわざ先の見えないものに手を出す必要がない」とね。

石原: なるほどねぇ〜。

田中: 「それならウチでできるだけ取ってしまったら」と私は進言したのですが、親父は「そうはいかない」といって結局ウチには20台だけの割り当てでした。

石原: その頃家庭ではまだ“手拭い”ですよね。

田中: その頃の日本ではタオルというものは上等なものだ、という意識がみんなにありました。タオルが一般的でない時代でしたね。
実はタオルにスポットライトが当たるキッカケは夏のタオルケットです。まだクーラーなんてどこの家にも無いですからね。 蒸し風呂のような夏の寝具としてタオルケットが飛ぶように売れて生産が間に合わないんですよ。

石原: タオルはケットとして普及したのですか。

田中: その頃私自身は「タオルなんてものは大した織物じゃない」と思っていたんです。タオルは織物としては下の下で自分ではとても積極的にやる気はなかったのですよ。
ただ、織物産地として青梅が転換をするにはタオルしかないだろうとは見ていました。それに親父も織物組合理事長として地元の方向転換に全身全霊を傾けておりましたしね。

石原: 取り組む織物としては物足りないけど、産地の発展はこれしかないということですか。

田中: 親父が産地の生き残りの転換を勧めていても、みんな踏み切れないのです。どこか核になるしかないと思いましてね。じゃ、俺がまずやってやろうと考えたのですよ。
そのように親父への協力が第一でしたが、自社の事業の巾を広げ次の経営幹部の育成をしていこうとも考えてのことでした。


>>十数年前から全国のタオル産地はバタバタと潰れていきましてね。今では泉州と今治がかろうじて残ったという状態です。



 
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