石原 |
その時のブランド名は「インテリアセンター」ですか。
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長原 |
「Hock(ホック)」です。北海道の頭を取って“ホック”としたのです。その後アメリカで見本市に初出品をしたときにも「Hock」の看板でやりました。すると見知らぬバイヤーが「これはまずいよ。アメリカの開拓時代に人を苦しめた悪徳高利貸しの代名詞だよ。音が“F*ck”にも似ているし」というのです。やっぱり文化も歴史も違うと、うっかりできないなぁと思いました。それでアメリカのデザイナーに企業イメージにふさわしい新しい「コーポレート アイデンティティ」を作ってくれと注文して、出来たのがいま社名とブランド名にしている「カンディハウス」です。1982年のことですが、世界に通用するブランドとして考えてもらったのです。
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石原 |
その「CONDE(カンディ)」とは何ですか。
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長原 |
「CONDE」は全く意味のない言葉です。このロゴを作ったチームの責任者は女性建築家で、グラフィックデザイナーとコピーライターの3人のチームでした。僕はそのチームに1万ドルを払ってお願いしました。当時のレートは1ドル300円くらいですから、日本円にすると300万円ほどです。今でいえば7〜800万円くらい払ったことになりますか。
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石原 |
すごい決断ですね。
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長原 |
「Hock」で失敗しているから、言葉としては無色透明なものを考えて欲しいと注文しました。3ヵ月後にプレゼンが来ました。「CONDE」はドイツ語でいえば「KONDE」で「O」は「オ」と「ア」の中間の音ですが、この「CONDE」はやはりOの発音だというのです。
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石原 |
「CONDE HOUSE」は「クォァンディハウス」と発音するのですね。 |
長原 |
そうです。ロゴの赤の色は日本の神女(みこ)が使っている伝統的な「紅緋」色だ。「CONDE」という言葉は世界の言語の中に一切存在しない新語だというのです。僕はこれに決めました。
「HOUSE」の方はそれ自身が世界語です。そして「CONDE HOUSE」という世界で全くオリジナルの言語のブランドが誕生したのです。翌年、1983年には代々木に東京1号店を作り、その運営会社として株式会社カンディハウスを初めて使い、84年のサンフランシスコ店「HOKKAIDO DESIGNS」の設立にはロゴマークとして「CONDE HOUSE」を使っていきました。
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石原 |
1968年の株式会社インテリアセンター設立以来40数年間、振り返ってみて特に記念碑的なことをおっしゃっていただけませんか。
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長原 |
第一には、やはり創立10周年記念の東京開催の「Hock ファニチャーフェア」で、会社が大きく飛躍するきっかけのイベントです。
第二には、バブルが崩壊し始めた時のことです。これは全く逆の話で、奈落の底に突き落ちるような大きな破滅的出来事です。それまでウナギ登りに上がってきた売り上げの頭が1991年度初めて折れました。それが前兆で、翌年一挙に30数パーセントのダウンです。大赤字です。
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石原 |
ファッション業界では93年くらいがむしろ売上げのピークでその後に「バブルの崩壊」の影響が現れましたが、家具のような耐久消費財は、すでにその時点で影響が起こったのですね。
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長原 |
食品やアパレルは確かにそんなに一挙ではなかったでしょうね。でも我々の製品は奢侈品に属するので反応が早かったのですよ。それにしても30数パーセント一挙というのは本当に奈落です。50数億円だった売上げが36億円まで落ち込んで、1992年度の決算は2億数千万円の赤字ですから…それは奈落です…。あちこちで皆「インテリアセンターは倒産だ」とウワサしていました。
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石原 |
旭川のその他の家具屋さんはどうだったのですか。
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長原 |
まだそれ程ではなかったようです。周辺の同業者がどんどん倒産するようになったのは1995年以降です。
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石原 |
御社は最も敏感だったのですね。
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長原 |
巨額の赤字の上に借金も28億円あるのですから世間のウワサは当然です。そこで私がまず打った手は、5行の取引先銀行に対する元利合わせて年間3億5千万円にのぼる金融返済の減額交渉でした。金利は払うが元金の返済額を5年間は90%減らしてもらいたいという、実質元金返済猶予のお願いです。もちろん最初はどの銀行もイイ顔をしてくれません。幸い我社には旭川信金から来てもらった社長室長がいて、銀行との交渉を全面的に担当してくれました。各銀行と個別に交渉を重ねて約半年かかりましたが、「倒産するか、5年待つか」のどちらかですから、最後は提案をほとんど丸呑みしていただけました。
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石原 |
1992年頃の銀行はまだ余裕がありましたよね。もう少し後の98年には北海道拓殖銀行の破産も出てきますからねぇ。
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長原 |
そうです。もう数年後だったら無理だったかもしれません。それにしてもあの時は1度倒産を経験したと言っていい大ピンチでした。
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石原 |
現社長の渡辺さんは…。
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長原 |
その時は専務でしたが、もちろん一緒にあの苦しみを経験しました。役員報酬を3割カットし、従業員の定期昇給をなくし、4〜5ヵ月分出していた賞与を1ヵ月分に減らしとかの荒療治をやりました。
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石原 |
「全治5年」はうまくいきましたか。
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長原 |
赤字決算は3年で解消し、1995年、96年も黒字でした。リストラも完了して、このペースで進めば将来的にも大丈夫と判断して社長を交代したのです。苦境脱出のために渡辺現社長はもちろん、経理にいた五十嵐という女性も一生懸命やりくりして本当に頑張ってくれましたよ。
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石原 |
社長交代はおいくつの時ですか。
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長原 |
62歳です。銀行からは、ようやく立ち直ったし、君は創業者なのだから70歳までやっていいよといわれていたのですが、渡辺君がまだ40歳代の時に社長をやらせたかったのです。あと1年で創業30周年でしたが、そんなことはどうでもいい、創業者は引け時が大事だ、と考えていましたから。もっとも今でも代表権は持たされているので完全に引退したわけではありません。
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